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言葉とか時代とか。

新年会だの何だのと、なにかと理由をつけて年に何回か会う高校時代の友人と恩師。

もう10年来の付き合い。

恩師の専門は人文系なので、自ずと文学や言語の話になることも多くて。

だから、そんな言葉の話を今回は。


時代とともに言葉は変わる

まず、たしかになぁ〜、と思った話。

同じ文脈、言葉を用いたとしても、20年後には全く同じ意味では伝わらない、ということ。

なぜなら時代が変われば言葉のニュアンスや解釈のされ方も変わるから。

それは時代とともに受け取り側の背景や前提知識などが変わることとも連動してたりもするし、
完全に違う言葉として解釈される、というケースもあったり。

だから、自分というものは、絶えず「今」の言葉を使っているのだなぁ、と意識することで、

その時使う言葉を「これから」に繋がる言葉としてそこに置くのか、否か、そんな基準でも選択できる。

それは良し悪しではなく、
言葉に賞味期限があるなんて思うこともなかったので、ただその事実に感嘆した、という話。


そして 今使っているこの言葉がいつか古くなる言葉だと改めて思い返してみると、なんだか不思議で、

"じゃあより長く伝わる言葉ってどうしたらいいのだろう?"

そんな疑問がきっと、自分の時間感覚まで養ってくれるんじゃないか、と思う。


言葉は言葉だけではない

また

言葉を「言葉」として認識しているのはもちろんのこと、
それを使って感覚や感情、情景なんかも伝えているのが言葉の役割だとわたしは思ってて。

言葉を使いながら言葉以上に伝える。

だからこそ表面の文字にとらわれずに、その下に潜む「本当に言いたいこと」や「本音・思い」などを受け取り合ったり、それをネタに笑いが起こったりするんだと思う。

現代では「行間」を読み取れなくなっている人が増えているという話も聞くけれど
その「行間」にこそ哀愁や文字にできない複雑な気持ちだったり、そういうものが溢れてる。

そして その「行間」は、
生活の中の「無駄」であったり、「手間」だったりと似ていて。

だから そういう余白のような時間に体感したことが、文章を読み取る際にも使える感覚と連動するんだと思う。

逆に言うと、

現代人は効率を求めて無駄をなくし、手間をかけなくなったために、
余白部分の行間を読み取りにくくなったのかなぁ、
なんてことも思ったり。


必ずしもそうではないのかもしれないけど、
でもわたしの大切にしたいニュアンスがある場所は、そういうところなんだな、と再認識。


もちろん、ビジネスの面で複雑な気持ちとか、切ない気持ちみたいなのを行間に込める必要はないと思うけど、、

それはTPOで。w


マツダレイナ

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