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2人で普通に楽しかった20代夫婦が、それでも子どもを産むことにした理由

子どもがほしかったのかどうか、今でもわからない

妊娠の報告をした後、兄に「もともと子どもほしかったんだっけ?」と聞かれた。それに対して出てきたのは「いや、特にそういうわけでは……」という曖昧な答えだった。

夫と付き合ってから結婚までに10年、一緒に住んでから1年半、子どもを持つ持たないについて、特段明確な意思を持ったことはなかった。「正直どちらでもいい、少なくとも今は」。そんな感じ。

幸い体にも大きなトラブルはなく、年齢的にもまだしばらくは健康な出産が可能であろうと思う。夫は、年を取ってから子どもを持つことのリスクを少し意識しているようだった。かといって彼も「子どもを持ちたいか」「親になりたいか」という話になると、「いや、特に……」という温度感。

夫婦仲は順調だったし、お互いに趣味も仕事もあるし、どこに行くにも何をするにも2人で充分楽しめる。身軽で、贅沢はできないが生活には余裕がある。対して、子どもを1〜2人育てるとなると、今後の家計がガラっと変わる。「子どもは贅沢品」。とある記事のそんな見出しに共感しつつ、考えれば考えるほど堂々巡りで、結論が出ないうちは無理にどちらかを選ばなくていいやとなっていた。

「じゃあなぜ避妊しなかったの?」という疑問が浮かぶと思うが、逆に言えば「子を持ちたくない」と決めていたわけでもないのだ。今の経済力を考えると、もちろん様々な工面や不便は伴うが、育てられる見通しはある。何より私たちの間には、互いに対して「この人となら子育てもできそう」という信頼関係もあった。子どもがいる未来も、いない未来も、最終的には受容して適応してそれなりに楽しんでいくのだろうと思っていた。

ただ……こうしたベースの環境があった上で、これはあくまで私個人の感覚だが、「子を持たなくていつか後悔することはあるかもしれないけど、子を持って後悔することはない」という確信めいたものがあった。決して、子を持たないと決めた人を否定しているわけではない。私と同じ「自分たちの意思で持つ・持たないを決められる状況」という条件に絞ったとしても、正解がないテーマだ。ひとまず選んだ後に、自分たちでその道を正解にしていくしかない。

それでも、決めかねている人は多いと思う。というか、決められるわけがない。ここで悩む人は子どもを育てたことがないので、検討のしようがないからだ。「自分の親はどうだったか?」を参考にするにしても、時代背景が違い過ぎる。女性の社会的役割が増え、子を持つ人も持たない人もいる時代ならではの悩みかもしれない。

だからこそ、とりあえず自分たちにとっての一旦の結論があれば充分だと思う。人によっては年齢が区切りになるかもしれないし、資産額になるかもしれないし、兄弟や友達の影響もあるだろう。

私たちはというと、人によっては「とんでもない」と思うかもしれないが、「授かったらそのとき決める」と決めていた。とはいえ、授かったら産むだろうなとはなんとなく確信していたけれど。

出産・子育てはバンジージャンプのようなものだと思う

まだ経験していないので想像でしかないが、出産・子育てはバンジージャンプのようなものだと思う。自己責任で飛び降りて、飛んでいる最中の景色はとにかく目まぐるしい。終えてみて初めて「あんなに高い所から飛んでいたのか」と実感する。

子を持つことが当たり前だった私の親世代(還暦前後)は、「みんながそうしているから」と、疑問を抱く余地もなく飛んでいたそうだ。ジャンプ台は常に大賑わいの大混雑、列の前の方も後ろの方も見えず、高さもリスクもよくわからない。気付いたらあっという間に自分の番が来て、覚悟もそこそこに背中を押されて飛び降りる。

対して現代は、まずジャンプ台に並ぶかどうかのご丁寧な意思確認から始まり、並んでいる間もバンジージャンプの怖さや様々なリスクがネットから嫌でも目に入る。並ぶ人も随分減ったので、自分の意思のみで階段を上がっていくしかない。途中で辞退して階段を降りる人もいるだろう。それでも自分はこの階段を登り続けたいのか?危険なバンジージャンプを飛ぶために?

「飛んだ人にしかわからない景色が待っている」という希望だけでは、その決心はなかなかできない。1度決心したとして、揺らがないなんてこともない。階段を登る間にもつまずいて怪我をするかもしれないし、溜まっていく疲労感のなかパートナーと意見が食い違うこともあるだろう。

私たちが出した先程の結論「授かったらそのとき決める」は、そういう意味では「とりあえずエレベーターで最上階に登り、ジャンプ台に立ってから考える」というものだったのかもしれない。決めてから登るのは自分たちには難しそうだったので、登ってから決めることにした。仮に、そこまで来て「やっぱり今ではないな」と思って見送る決断をする夫婦がいたとして、私は一切軽蔑しない。だって、その選択肢も有り得る行動を自分たちがしていたのだから。

結果的に、最高の形で授かってくれた

自分たちのスタンスを決めたおかげで、「なかなかできない」と焦ることもなく、「やっぱり子育て大変そう」と不安になることもなく、自分たちらしいスピードで生活を送ることができていた。この期間中、全く迷うことがなかったかと言われるとそんなことはないが、結論が出ないことに悶々と頭をめぐらせる時間はほとんどなくなった。

そんなこんなで1年ほどが経った。別にタイミング法みたいなものを意識していたわけではないけれど、とはいえ「意外とできないもんだね…?」という空気が漂い始め、「お互い検査だけしておいてもいいかもね」なんて話していた頃に妊娠がわかった。

これがかなり絶妙なタイミングで。

1つは、ちょうど引越しを終えたタイミングだったこと。私は前の家がどうしても合わず、人生の中で定期的に顔を出すメンタル不調が再発。久しぶりに心療内科に通うも、新しい土地の新しい病院はしっくりこず、最終的に良い部屋が見つかったのを機に引越しを決行。そこは少し古いけれど部屋数も多く、住んでみてわかったが子育て世帯の多いマンションだった。「趣味部屋にしよう」と話していた一室が、そのまま子ども部屋になりそうである。

もう1つは、私の仕事が落ち着いたタイミングだったこと。フリーランスのライター・編集をしているので、基本は各社からの締切に追われる生活をしている。リスクヘッジのためになるべく多くの会社と取引をしていて、当然その全てにおいて自分の代わりはいない。妊娠するとなったらそのあたりを整理しなければならないことも、なかなか結論を出せずにいる理由の1つとなっていた。

それが、本当に偶然、春からとある長期プロジェクトに参画していたことで、状況が変わっていた。先方から一定のリソース確保を求められていたので、予め時間をかけて受注範囲を縮小していたのだ。その長期プロジェクトは妊娠生活とも相性の悪くない稼働内容だったし、これなら特段調整を入れなくても今の働き方を継続できる。

そんなこんなで、考えれば考えるほど最高のタイミングで来てくれたのだ。単純に「去年は私の体調が悪かったので生殖機能が落ちていたのでは」とめちゃくちゃドライに考えることもできなくはないが、なんにしても、「この子は産むしかあるまい」と思わせてくれた。今の私たちには、それが”今の選択”となった。

世の中には「親になる覚悟」なんて言葉があるが、そんなものが本当に必要だとして、私はそれを子に運んできてもらってもいいのではないかと思う。自分の気持ちひとつで親になれる人はそう多くない。ジャンプ台から突き落とされたから、結果として飛べた。そうやって決まる覚悟があってもいいだろう。


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