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便利な社会は生き物としての人間の能力を失わせる #自分ごと化対談(プロ登山家 竹内洋岳氏)Chapter4

※本記事は、YouTubeで公開している自分ごと化対談【政治とリアリティ「下山の哲学」に学ぶいま、日本に必要なこと】について、Chapterごとに書き起こし(一部編集)したものです。

人間の標準の基準とは?

<竹内>
社会はサステイナブルに向かっているけど、人間それぞれは、そこから離れていっている可能性がある?

<加藤>
可能性があると思いますよ。
第1回で対談した中村桂子さんがそのこと仰っているし、人類学者の長谷川眞理子さんも「私は自動運転というのは反対なのよ」と言うんです。ますます人間がラクして、能力が下がると。

生物系の方というのはそういうことをよくおっしゃいますね。

<竹内>
なるほどね。
著書で中村さんのことが書かれていて、標準というのは実は機械的なものでしかないと。標準を決めて、そこから外れているかどうか。本来、生物的に標準なんてないんですよね。

私たちが勝手にランク分けしたり、クラス分けしたりしているというのは、確かにそうですね。

<加藤>
中村さんはゲノムを見ると、凄くわかるというんです。世界中の人間のどんな人を見ても、ゲノムが全く同じ人はいない。みんなちょっとずつ違う。ところが、例えば私たちは健常者、障がい者という言葉を使いますが、ゲノムが大きく違うかというと、それも他の人との違いと同じレベルの違いなんですよね。

その意味で、標準はないというのは、やっぱりそうかなと思いますね。今の仕組みは標準を決めて、標準から外れた人には、例えば障がい者にはこういう福祉を提供しようというもの。現実的にはそれである程度いいと思う。

ところが、中村さんのような科学者は、標準はなくて、すべての人間が同じように生きていける仕組みが理想というのが原理原則なんですよね。原理原則から見て今の政策をどうするか考えることと、ある問題を中心にしてどのように改善するか考える事では、良くする仕方が違うんですよね。

そうはいっても、現実にはお金もないしどうしようか…という場合には、政策の改革のレベルとか方向が大きく違って来る。そういう意味で、科学者の視点はすごく大事。

リアリティをよく見ることと、ゲノムレベルのリアリティからスタートすること、そこにはすごく大事な視点があるのではないかと思う。

<竹内>
今は健常者を標準として、標準から外れている人を障がい者としている。だけど、以前加藤さんは、障害のある人にとっては、健常者が障害物で、障がい者と呼ばれる人たちは健常者という障害を超えていかなければいけない「障害物競走をしている人たち」なんだということを仰っていたことがある。

まさに標準とは何なのか。私たちは標準というのを勝手に決めて、それ以外のものをいわゆる障がい者と言っている。

<加藤>
障がいのある人が入りにくいような世の中の仕組みを作って、我々が障がい者といっているわけで。陸上の障害物競走は、走る人のことではなく、あるモノのことを「障害」と言っているわけですから。

<竹内>
あの人たちは、障害、障害物を越えていかなきゃいけない人たちなんですね。

日本のバリアフリー化が進んだことで、私たちが障害のある人たちに手を貸さなくなったと著書の中に書いてあって、言われてみればそうだなと共感しました。

以前は、階段とか、電車の乗り降りとか、車椅子の人が居たら手伝ったものですけど、今はもう、バリアフリー化が進んだことで手伝う必要がなくなった。

同じバリアフリー化であっても、建物を作り直すようなバリアフリーではなくて、私たちが手を貸す、手助けをするというバリアフリーというのが、本来あったはずなんですよね。

それを構造というものに、私達が丸投げしてしまっていると感じますね。

<加藤>
結局お金で解決しようとしているんです。お金を出して設備を、仕組みを作りましょう。そのために補助金を出しましょうと。理想論なんですけどね。

だけれども、手を貸すということが増えていけば、結果的に使う金額も減るのではないかという発想を持ってもいいのではと思いますね。

<竹内>
著書では、日本のお金の使いみちが4つの柱があって、もともとは社会保障・土木・教育・地方。今は社会保障の費用がどんどん増えてしまっていると書かれています。

「手を貸す」ということを、教育の部分にお金をかけていくことで、社会保障の費用を減らしていくこと出来るのでは?

<加藤>
出来ると思いますね。例えば外国では電車に乗るときに、車椅子とか、目の悪い人がいると、すぐ手を貸しますよね。エスカレーター、エレベーター、リフト、点字ブロックなどは、先進国ではめったに見ない。よっぽど日本の方が設備はある。その分本当に手を貸さない。

手を貸すのは一瞬めんどうかもしれないけど、ちょっとした良いことやると、今日はちょっと良い日だったと思うじゃないですか。(笑)

他にも、例えばバリアフリーの予算を1割削るというと、バリアフリー軽視と言われますね。

<竹内>
怒られそうですね。

<加藤>
そうなんですよ。金額で物事を計ることは、やっぱり問題ではないかと思う。
 

ツルツルとザラザラの在り方


<竹内>
著書では、私が今まで疑問に感じていたところの解説がいっぱい載っています。正直言うと、テレビや新聞で言っていることは本当なのかと思うことがあるんですが、それが補われたということがあって、気づきがたくさんありました。

加藤さんが提案している、ツルツルとザラザラ世界二制度のススメ。これは、一人がツルツルとザラザラを共有していくのか、それとも、ツルツル担当者・ザラザラ担当者みたいな世界なのか。

どちらが現実的だと考えられますか。

<加藤>
私は一人の中に両方があっていいし、それが出来ると思っています。その中で、ツルツル大根もあれば、ザラザラ大根もある。ツルツルテーブルもあれば、ザラザラテーブルもある。

大事なのは、自分がどっちに属するかはとりあえず決めること。決めるけど、ザラザラ大根も買えるし、ツルツルテーブルも買える。ただ買う時に値段の付け方が変わってくる。自分の中でこの部分はある程度ツルツルの生活したい、だけどこの部分はザラザラの生活がしたい。

両方あっても良いし、二制度というのは、それが混在出来るという意味での二制度です。ちょっとツルツル疲れたからザラザラに行こうかと、それを変えることも出来る。

それは可能ではないかと…。例えばスーパーに行って、有機農法で作った野菜を買う。私の言葉でいえばザラザラ野菜、その代わりちょっと高い。それはいまでも我々は両方使い分けているわけです。だから、それは出来るんじゃないかと思います。

<竹内>
コロナの影響によって、加藤さんの提案されるツルツルとザラザラの世界を進められるチャンスが来ている気がします。コロナによって世界中の社会の仕組みが変わっていく、変えなければいけないと、なんとなく私たちの共通の意識としてあるような気がするんです。

その中で実現していく可能性、一気に進めていく可能性についてはどう思いますか。

<加藤>
チャンスだと思う。暮らし方自体が、今までツルツルの中で一生懸命、朝から晩まで働いてやっていたのが、家の中にいないといけない、という変化があった。

<竹内>
これまでやっていたことが、リモートワークで良かったんじゃないかと感じます。

<加藤>
コロナ禍で、違うものを強制的に体験させられるようになった。そして、「これでやれるじゃん」という体験をした。その中で、結果的にザラザラ的体験をするようになったのではないかという気がします。

だからチャンスでしょうし、今回大きいのは、日本だけじゃなくて世界中でそれが起こっているわけですよね。

<竹内>
気象災害とか、紛争とかは決まったエリアだけで起きますけど、今回のコロナは世界中で同じ経験をしていますからね。

<加藤>
その意味で、先に進んだ先進国であるアメリカ人やヨーロッパの人のほうが、結構ザラザラ世界を残していて、そこに愛着を持っている人が多かった。ですから、世界全部が同じ体験したことは、ザラザラ的なニュアンスが強くなるんじゃないかなあと思いますね。

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