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長編小説「きみがくれた」上ー㉔

「別れの朝」


 いつものようにまだ暗いうちに目が覚めて、今朝もそこに霧島の姿はなかった。

 部屋の隅に古いギターケースも、黒いナップザックも見当たらない。

 マスターの“夜コーヒー”の匂いが漂う渡り廊下を足早に進み、突き当りのドアを押し開けて店内へ降りる。

 外の空気を吸い込んで、アスファルトを歩いて行く。

 やわらかな風がそよぐ通りを下りながら、今日も懐かしい姿を探す。

 
 季節は少しずつ移り変わっている。


 樫の森の木々は朝露に湿り、土と草の匂いが立ち込めていた。
 昨日の雨でりんごの花はもうほとんど残っていないかもしれない。

湿気た土の上を歩きながら、早朝の風に乗って小さな花びらがひとつ、ふたつ。

 くっきりと洗われた空が朝を迎えようとしていた。
 

 残り僅かな花びらを散らすその下に、マーヤはあの日と同じ服装で立っていた。

 青いパーカーにデニムのパンツ、ネイビーのリュックサックと登山用の茶色いブーツ。


 今年もまた、マーヤが行ってしまう。

 霧島、今年もまた、マーヤが行ってしまうよ。


“僕がいない間、霧島を頼むよ”

 そう言い残してマーヤはこの街を出た。


 今年もこの日がやってきた。

“念のため、置手紙をしていくよ”

“もしも、僕が間に合わなかった時のためにね”


 出発の間際までマーヤはアパートの部屋で霧島を待っていた。

“パーティーの準備は万端”

“僕がいなくてもちゃんと当日にお祝いしてあげてねって、みんなに言っておくよ”


 マーヤは折り紙の裏に書いた手紙を霧島の部屋の低いテーブルの上に残し、アパートを出た。

 あの日もいつもと変わらない、いつものマーヤの笑顔だった。


 時折吹き抜けていく清々しい風が、マーヤの髪を優しく撫でていく。

 残り少ない花びらは風に乗り、青く澄み渡る空へ昇っていく。

「僕、もう行かなくちゃ」

 風に告げるようにこぼした声は、空高くへと吸い上げられた。


 少しずつ滲む横顔


“ごめんね”


 今年最後のマーヤの笑顔は、去年と同じセリフとともに青空の中へ溶けていった。



 霧島、今年もマーヤが行ってしまったよ。


 何度でも行ってしまうマーヤを止めることはできない。


 毎年、迎え、そして送る。
 ただ、それを繰り返す。

“僕がいない間、霧島を頼むよ”


 あの日そう言い残したことを、きっとマーヤはもう、忘れている。


 マーヤは今も霧島の帰りを待っている。

 あの日からずっと。


 今も。


 霧島、今年もマーヤが行ってしまった。

 今年もまた、行ってしまったよ。



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