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「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出③』

「深海」


 ガレージの裏手から見下ろすと、プライベートビーチのような海岸が広がっていた。
 まだシーズン真っ盛りで天気も良くて、波はとても穏やかで、けれど人一人の姿も見えなかった。そこはただ白い砂浜と青い海だけが広がっている、静かな楽園のように見えた。
 そして、遠く岬の先には、あの真っ白な灯台が――道路から見た時よりも少しリアルに、さらに美しく映えていた。まるで映画のワンシーンに出て来そうな完璧な風景だった。
 誰もいない絶景を一人占めしている感覚――まさに穴場スポットといえるような場所だった。

 道もない草の土手を下まで降りて、辺りを見渡した。
 
 砂浜に寄せる波打ち際――その絵葉書のような美しい景色の中に、その人は立っていた。
 水平線に向かって一人立つその後ろ姿――逆光の中に佇む細いシルエットに俺は無意識に目を奪われていた。

 作業着の両袖を脱ぎおろした白いシャツ、細い線の体から伸びる長い腕――ゆるやかなさざ波の音、肌を撫でる海風、青く輝く空、遠くエメラルドグリーンの海――。

 俺は思わず、手にしていたカメラのシャッターをきった。

 その音に、聖はゆっくりとこちらを振り返った。

 それはまるでストップモーションのようにゆっくりと――風に揺れる髪、逆光に陰る顔のラインも薄い口元――そして、白い煙は細く、長く、薄く、たなびいていた。

 俺はそこから目が離せなくなっていた。

今この瞬間を外したら、もう二度と――その姿形は消えて無くなり、失われてしまう――そんな恐怖が頭を過った。

 ファインダーの中には感情のない表情――限りなく無に近い――ただ切れ長の静かな瞳がこちらに向けられている――それだけだった。

 聖の髪が風に揺れていることだけが、これは現実に起きていることだと俺に教えていた。


 不意にあの深い海のような瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。
 俺は我に返って、と同時に、酷く驚いた。

 それまで人物を撮ったこともなかったし、撮りたいと思ったこともなかった。なのに、あの時俺は反射的に、無意識の中でシャッターを押し続けていた。

 
 そしてほどなく俺は初対面の人間に断りもなくカメラを向け勝手に写真を撮ってしまったことを自覚した。急に恥ずかしくなり、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 けれど目の前にいる聖はそれについて何も口にしなかった。
 少しも表情を変えることなく再び背を向けると、何事もなかったかのように細い煙草を口にくわえた。

 聖の中で、俺の存在そのものが消え失せた瞬間だった。

 あの日俺はファインダー越しに、聖の瞳に宿る虚無を知ってしまった。

 あの夏の穏やかな海の、果てしなく繰り返す波のように、遠く、深く、永遠に続く静寂―――その瞳に温度はなく、受け入れも拒みもしない、ただそこに在るのみ――けれどなぜか目が離せない‥そんな例えようのない初めての感覚が、俺の中に刻まれた。

 それ以来、俺は休みの度に聖の住む街へバイクを走らせた。
 聖が仕事をしている傍らで勝手に写真を撮ったりもした。出会って間もなく丘の上の家に遊びに行ったし、聖の休憩時間を見計らってその数十分だけでも会いに行った。
 思えば俺は一方的にあいつの側にいさせてもらっていたんだ。

 そう、ただ、一方的に。

 
 俺が知っているのは、俺と過ごした時間の中にいるあいつだけだった。

 聖はプライベートを撮られることに対しても完全に無抵抗だった。というより一切関心がなかった。自分の容姿や服装、もっと言えば生活そのものに驚くほど無頓着な人間だった。
 俺はいつも撮りたい瞬間に撮りたいだけシャッターをきった。
 
 聖はほんの些細な動作ひとつとっても画になる男だった。本人にはそんな自覚まるでなかったけれど、例えばただ煙草に火をつける仕草ひとつ、俺の呼び掛けに顔をこちらへ向けた瞬間、遠く海を眺める視線、その横顔を切り取っただけでも――ほんのささやかな、なんてことのない動きの、そのほんの一瞬でさえ、俺はそれをカメラに納めずにはいられなかった。

 聖がそんな俺をどう思っていたのかは知らない。
 けれど時々、本当にごくごく稀にだけれど、すっとこちらを見て――何も言わず、ほんのすこしだけ、微かに表情を緩めて見せることがあった。
 それは集中しないと見逃してしまう程の僅かな‥そしてその瞬間は俺にとって最高の歓びだった。
 そういう時は大抵カメラを構えていなくて、俺はもの凄く損をしたような気持ちになった。
 笑顔ともいいきれない、なんとも表現しきれないあの表情に、俺は“ここにいてもいいんだ”と思えた。
 ほんの僅かな、それは聖の気まぐれかもしれない。けれど、たった、ただそれだけのことで、俺は俺の全部が満たされた。
 あいつにはそういう不思議な力が備わっていたんだ。


 聖が唯一俺に話してくれたのは、例の車のことだった。
と言っても、俺が一生懸命に質問攻めにして、それでも返ってきたのは一言、二言程度だった。

 あの夏の日、あの美しい海岸で、俺は初対面の聖を勝手にカメラに納めた上に、そのままあの車のことを聞きまくった。
 なぜあの車がこんなとこにあるのか、どんな経緯でここにあるのか、そしてなぜオーナーになれたのか。

“もはやお金で買えるようなシロモノじゃないよね?!”
“変えたとしても間違いなく億単位だよね?!”
“あんな激レアな車一体どうやって手に入れたの?!”

 けれどあいつはミーハー根性全開な俺に少しも動揺することなく、こう答えた。

“もらいもの”

 聖は俺に背中を向けたまま、そんなことはまるでどうでもいいことのように。

“もらいもの”とだけ答えた。

 俺はその一言にミーハー気分が沈下して、それ以上は何も聞き出せなかった。
 吐き出された細く長い煙草の煙が風に流れていくのを眺めながら、なんて美しい青空だろうと思っていた。

 あとから考えればあれはいかにもあいつらしい答えだった。けれどあの時の俺にはあまりにもそっけなく、関心のなさそうな態度に見えて、全く受け入れられなかった。

 こいつはあの車の希少性や価値をまるで分かっていないと思った。
 もし分かっていてあの超高級外車を一般の乗用車並みに乗り回しているとすればどういう神経なんだろうとか、しかもあんな潮風の吹き曝しにカバーもなしで放置しておくなんて考えられないし、こいつはいったい何者なんだって疑いにかかった。
 普通じゃないことは確かだって、本気で思った。
 しかも「もらいもの」だなんて、あんな車をもらえる人間て、どれ程の人物なんだってね。

 それに、あの車を“くれた”人も只者ではないなと思った。
 どんな人物なのか、一体どこでどうやって知り合ったのか、そしてどんな関係なのか。気になることは山ほどあった。
 今俺の目の前で煙草をくわえている整備士の男は、もしかしたらどこぞの御曹司か?
 もしかしたら外国の富豪のパトロンが付いているのか?
 まさか盗難車ってことはないだろうな‥なんて、俺は聖を眺めながらいろいろな想像を巡らせた。
 なにせこの見た目だし、今は一般人同様の生活をしているけれど、実はどこかの国の王族なんじゃないかとか、そこから抜けるためにあの車を財産分与の代わりに渡され、ここに辿り着いた悲運の貴公子なんじゃないかとか、そんな架空の人物まで作り上げてしまうくらい、俺と聖のあの車に対する認識には大きな価値観の差があった。

 でも、あの時の聖の反応は、本人にしてみればしごく自然な答えだった。
 聖にとってあの車の価値というのは、俺のそれとはまるで別のところにあったんだ。

 あの車が聖にとってどんな存在かということは、それからだいぶ経ってからボスに教えてもらった。

“たまたま”
“あの車だった”

ボスは重たい煙草の煙をふかしながら、あの車にまつわる話を聞かせてくれた。

 聖が社会人として働き始めたのは16歳の年で、最初に仕事に就いたのは別の街の自動車整備工場だった。
 当時はもちろん車のことなんて何も知らなくて、見るもの全てが初めてのことばかりだった。それでもそこの親方や先輩たちに毎日少しずつ仕事を教えてもらって、ひたすらそれをこなしていく日々を送っていた。それから数年後、ある日、親方から廃車寸前だったあの車をもらうことになる。

 そしてこう告げられた。

“こいつをお前一人の力で走らせてみろ”

 聖は通常の仕事の合間を縫って、毎日コツコツたった一人であの車に向き合った。何度も失敗してはやり直し、壊しては組み立てて、結局2年以上もかけて、けれど見事自力であの車を甦らせた。

“あれはあいつの照明なのさ”
そうボスは言っていた。

“値段なんかあるわけはねぇ”

“まして価値なんざ他人が図るもんでもねぇのさ”

 ボスは聖が初めて自分の工場を訪れた日のこともよく覚えていた。

“あの車がそこへ乗り付けられたときにゃぁ正直この俺でもビビったぜ”

“あいつは降りてここまで来ると、俺に写真を一枚見せた”

“あれが俺に言ったのはたった一言だけだった”


“どう?”


――いかにもあいつらしいよ。
 そこには廃車寸前だった時のあの車が写ってた。
 ボスに言わせれば見るも無残な、どんな事故を起こしたらこうなるんだっていうくらいのシロモノだったらしい。

“親方が次の職場でこれを見せろって”

 聖は当時まだ20歳そこそこの青年だった。

“あれは別にここじゃなくてもいいってツラだった”

 ボスは初めて聖を見た時、一人前の整備工を目指しているようには見えなかったと言った。

“どこへ行く気もねぇって目ぇしてやがった”
“走ってたら見つけた、だから寄った”
“目的なんざぁはなっからなかったんだ”

 ボスはその青年を“ハキのねぇ野郎”だと思ったものの、“現物”と“写真”だけ見せられてどうだっていうやり方が“イケスカねぇ”と思った。
 分かるやつにはわかるって、半人前のガキに試されてるみたいで胸クソ悪かったって。

“小童が道場破りさながらに乗り込んで来たんだ”
“受けて立たねぇわけにはいくめぇよ”

 ボスは聖を気に入ったと言っていた。

“てめぇを生きてねぇ人間ってのを見るのは初めてじゃなかったからな”


“あの車はあいつの照明”

 あれは聖自身だったのかもしれない。


 自分自身に「生きろ」と言えなかった聖が、必死で「生きろ」と言い続けた。
 あの車は聖の「生きる証」だったんだ。

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