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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出③』

 

「2羽の小鳥」

 
 美術室の隣にある準備室も、霧島のサボり場のひとつだった。
 霧島はここでも授業が終わるまで居眠りをしていた。
 
 窓辺に置かれた古い木の丸椅子が“特等席”で、美術の羽村先生はその椅子を“留まり木”と呼んでいた。
 

“彼は、来ていないよ”

 あの日は雨が降っていて、僕が霧島を迎えに行くと、先生はとても淋しそうに見えた。

“雨の日は、彼はここへは来ない”

 湿気た木の床の匂いと、油絵の具のオイルの匂い。
 どっしりとした古い木のテーブルの上はいつものように使い込んだ画材が散らばっていた。

 先生は僕たち二人のことを“細い枝に寄り添って留まる2羽の小鳥”と形容した。

“君たちのことがうらやましい”

 白衣の袖を一折して、先生は窓際へ近づいて行った。
 部屋は春の雨に閉じ込められて、静かな時間が流れていた。

「君がそのドアを開けると、彼はそれまでぐっすり眠ていても、すぐに目を覚ます」
 丸椅子の傍らで、先生は入口のドアを指した。

「まるで既に起きていたかのようにね」

 そして何のためらいもなく部屋を出て行く。

 先生の声は独り言のように部屋を漂っていた。
“この場所への、またはそれまで誘われていた睡眠への名残惜しさの欠片もなく”
“今まで安らかに眠っていたその事実さえなかったかのように”
“もしくは直前の過去をすっかり忘れ去ったかのように”
“その瞬間、彼の全てが君を最優先にする”
“あるいはその直後、彼の世界には君がただ一人存在している”

「彼はここへ来ると必ずこの椅子に座る。そしてしばらくは開け放たれた窓の外をぼんやりと眺めているんだ」

“僕は大抵の場合そちら側で絵筆を取っているわけだけれど、彼は依然、僕がここにいることなどまるで感知していない”

「準備されたこの場所で、窓から吹き込むやわらかな風に、髪を揺らして。」

 先生の声はどこかうれしそうに響いた。

「ここにに入っていいかどうかも、そこに居ていいかどうかも、彼は一度も私に尋ねたことはなかった。」

「もちろん僕も教師の端くれとして、彼の素行には気を配るべき立場ではあるのでね」
 先生はそう前置きをして、
「けれども気が済むまでそこに居る彼を、僕が拒む権利はない」

“そうして僕は、やがて言いようのない不安に襲われる”
“その位置からこちらの――窓の外を見つめる彼の背中を見ていると――”
“今にもその窓の外へと、空の中へと、風の流れへ溶け出してしまいそうな‥そんな錯覚に駆られるんだ”

 それはまるで、水を通した真っ白なケント紙に水彩絵の具の一滴が落ち、それが紙に吸い込まれないまま薄く広がり、ついには紙の白と水と区別がつかなくなるように。

“青すぎる空の昼下がりには特に――彼の輪郭が光に縁取られ、ぼんやりと歪んでいく様はまるで――”
“周囲の光と混ざり合い、より強い光の方へと吸収されていくような――”
“やがてそのまま眩しさの中へと消えて無くなってしまいそうな――”

 霧島がぐっすり眠っていると安心する、そう羽村先生は言っていた。
 そして霧島の寝顔を見ているとつい、スケッチをしてしまうとも。

“今、彼を描き留めておかないと”

“衝動‥とはああいう感情をいうのだろうな”

“どうしても描かずにはいられなかった”
“このスケッチブックの中にだけでも、彼を――”

 先生は丁寧に、言葉を置くように話を続けた。

“恐らく僕は、教師としては間違っているのかもしれない”

“けれど、”
 先生は俯いたままくすりと漏らした。
“おかしなことだと、むろん自分でも理解している”
 雨の雫が流れる窓に目を向けて、先生は満足そうにこう言った。

「僕は彼がこの場所を選んでくれたことを、むしろ誇らしいとさえ思っている」

“僕はこの椅子を片付けない”
“彼が本当の意味で、どこかへ飛んで行ってしまわないように”

 あの椅子、まだあそこにあるかな。

 先生のスケッチブックには、霧島の姿が何枚も描き留められていた。
 そのどれもが後ろ姿で、どれも同じようなアングルだったけれど、それらのどれも同じではなかった。
 その全ての絵に、色に、先生の想いが込められているようだった。
神経質なほど写実的で、本当にそこに霧島がいるみたいなリアルさが、僕の胸の奥に影を落とした。
 ページを1枚めくるごとに、僕は何故だか心がざわざわするような、喉にしこりがあるような、そんな気持ちになった。

「彼には言わないでおいてくれ」

“もうここへは来なくなってしまうから”

 
 先生は分かってくれていたんだと僕は思う。
 霧島がここに居たいだけ居させてくれたのも、ここへ来ることを拒まなかったのも、霧島の気持ちを尊重してくれたからだ。
 
 
 短く切りそろえた前髪の下の、銀縁の眼鏡の奥から、先生は何時間でも霧島を見ていた。

 青白く痩せた頬、血色のない薄い唇。
 淋し気に目を伏せたその先に、霧島の安らかな寝顔があった。

 霧島のことを想ってくれる人がここにもいる。
 僕はそれがとてもうれしかった。

 あのスケッチブックはきっと今も先生の部屋にあるだろう。

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