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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出⑮』

「マツミナ」


 いつかの夜、僕がマスターのお店に行くと、霧島とほとりちゃんがカウンターに座っていた。
 キッチンのマスターにあいさつをして、僕は霧島とほとりちゃんが離れて座っていることに気が付いた。

「ほとりちゃん、こっちに詰めて座ったら?」
 霧島の隣にほとりちゃん、僕はその隣に座った。

 霧島は前髪を輪ゴムでくくってガパオライスを頬張っていた。
 ほとりちゃんは膝の上で手を握ったまま、横目でその様子を伺っていた。

「ほとりちゃん、霧島ね、この前ちょんまげのまま外に出たらね、そこの道で冴子さんに呼び止められて、車の中からめっちゃ怒られたんだよ!!」
「せめてヘアバンドにしなさいとか、ピン留めにしなさいとか言われたんだよね!」 
 冴子さんは「ちょんまげはない!」とこの間もここでずっと文句を言っていた。
「てゆーか前髪切れっつの!だって!あはははは!!」
「ね、ほとりちゃん、おもしろいよね!!」
 僕はほとりちゃんにそう言って、けれどほとりちゃんは真っ直ぐに前を向いているだけだった。

「ほとりちゃん、大丈夫?」
 キッチンから出て来たマスターが気遣うように声を掛けた。
 でもほとりちゃんはぼんやりとしたままで、マスターの声には応えなかった。

「マスター、僕もガパオお願い!あとほとりちゃんの分も‥」
「―うん、ガパオふたつ、ね」

 僕はほとりちゃんの様子が気になったけど、そのほとりちゃんのために、その夜は僕のミッションをやり遂げなきゃならなかった。

「霧島、ほとりちゃんがね、勉強教えて欲しいんだって」
 僕はほとりちゃん越しに霧島を覗き込んだ。
「数学と地理、霧島が一番得意な科目!」
「日曜日にここで、いいよね?」
 霧島は僕の声掛けにリンゴジュースを飲みながら横に座るほとりちゃんをじっと見た。
「よかったね、ほとりちゃん、教えてくれるって」
 けれどほとりちゃんはぴくりとも動かなかった。

 霧島はリンゴジュースのお代わりをグラスに注ぎながら、もう一度ほとりちゃんを見つめた。

「っっあっっ…あの、あの、私っっあのっ…す、すすすみません私っ…ごめんなさい、厚かましいですよね、ごめんなさいっっ…!」

 ほとりちゃんは突然しゃべり出して、正面に向かって頭を下げると、そのまま俯いてしまった。

「ううん、そんなことないよね霧島」
「霧島はなんでも一番だけど、数学とか理系は特に超スゴイんだ」
 だから大丈夫だよ、と僕はほとりちゃんを覗き込んだ。

 ほとりちゃんは体をぎゅっと縮めたまま、首をぶんぶん横に振った。
「あ、あのいえあのそういうことではなくっっ…あの、せ、せせせセンパイが超スゴイことはわわわ私もよっっっっく分かってます、分かってます、あの、たたたただものすっごく、ものすっっっごくご迷惑なんじゃないかとっっ…やっぱり、すっごく、すっごくご迷惑かと―――っっっ……!!」

「平気だよ、ね、霧島」

「でででででででもでもでもっっっ……!!!」

 リンゴジュースを全部飲み干すと、霧島はグラスとお皿とスプーンをまとめて席を立った。
 霧島がキッチンへ入ってしまうと、ほとりちゃんはがっくりと肩を落とし、深く長い溜息をついた。

「―――……やっぱり、ものすっごくご迷惑に違いないかと――……」
 ほとりちゃんはそう言うけど、僕には全然そんな風に見えなかった。
「そぉかな?」
「――――だって、霧島先輩、その…一言も…――何も言ってくださらなかったし…」
 ほとりちゃんはそう言って両手で頬を包み、眉根を寄せた。
「でも嫌って言ってなかったから」
 僕はほとりちゃんに安心して欲しくて、もう一度「大丈夫だよ」とほとりちゃんを覗いた。でもほとりちゃんは僕と目を合わせると、丸い目をもっと丸くして、顔をもっともっと赤くした。

「あいつ、嫌なら嫌って言うから、嫌じゃないってことは、いいってことだから」
 僕にしてみればそれはかなりの好感触だった。
 ほとりちゃんが霧島と仲良くなる一大チャンスに僕はワクワクしていた。


「霧島、今週の日曜日でもいい?」
 僕が聞くと、霧島はドアの前で足を止めた。

 そしてもう一度ほとりちゃんをじっと見つめた。


「誰?」


 隣でほとりちゃんがビクっとした。

「ほとりちゃんだよ、前にもここで会ったでしょ」

 僕は霧島にほとりちゃんのことを一から説明した。
 僕と同じ環境委員会で、1年生。茶道部で、植物と犬と猫が好きで。

「ほら、前に霧島が昼寝してた時、茶器を取りに行ったほとりちゃんに会ってたって話、してたでしょ」
「霧島が高いところにあった茶器を取ってあげて、そのお礼を言いにここに来たじゃない」
 
 霧島はきょとん顔でほとりちゃんを見ていた。


「霧島、ほとりちゃんに勉強教えてあげてよ」
 僕は改めて霧島にそうお願いした。

「数学と地理が苦手なんだって、霧島の一番の得意科目!」
「今週の日曜日に、ここで、いいよね?」

 僕の言葉に頷きもせず、霧島はほとりちゃんに目をやった。

「マーヤに教えてもらえ」

「えー!なんで?僕なんかより霧島に教わった方が絶対いいよ!」
「ねぇほとりちゃん、それがいいよね」
 僕は慌ててほとりちゃんにそう言った。
「霧島、お願いだから教えてあげてよ、日曜が無理なら他の日でも…いいよね、ほとりちゃん」
 僕はどうにかして霧島とほとりちゃんの仲を取り持ちたかった。
 ほとりちゃんの顔がどんどん赤くなっていく。

「ちょっと待って、霧島、まだ帰らないで」
 霧島がドアに手を掛けたときだった。

「あ」

 喉の奥から声を漏らした霧島は、振り返り、
「今日何曜日?」
と眉間にしわを寄せた。
「やべ」とこぼした次の瞬間、

「こーんばーんはー!!」
 気が付くのが遅かった霧島の後ろから、冴子さんのご機嫌な声が店内に放たれた。

「あらあらまぁまぁ!ほとりちゃんじゃないのぉ!!いらっしゃい!!」
 両手に大きな紙の包みを抱えた冴子さんは、いつも通りソファ席のテーブルに荷物を降ろすと真っ先にほとりちゃんのもとへ突き進んだ。
「ほんとにかわいらしいわぁ!なぁに?夕ご飯食べに来たの?」
「冴子さん、こんばんは!」
 僕は元気よくあいさつをした。

「はーい、そこ!どこ行くの?!」
 こっそり外へ出ようとした霧島の背中に向かってそう言うと、「あんたまたそんなへんな髪して!」と霧島の側へ足を進めた。
「まーたそのまま外出歩こうとしてたでしょ?!こないだヘアバンドあげたでしょーが!夜だからってみっともないんだからやめなさいよ!」
 冴子さんに前髪の輪ゴムを引きほどかれて、霧島は「痛って!」と顔をしかめた。
「痛くない!」
 冴子さんは霧島の頭を軽く小突くと、霧島をもとの席へと押し戻した。
 すぐにでもここから立ち去りたい霧島は、けれど無駄な抵抗をすることもなく、大人しく席へ着いた。

 霧島は居心地悪そうな顔を隠そうともせず、頬杖をついてふて腐れていた。

 霧島は多分何も考えてないんだ。だからよく”失敗”する。
 僕は冴子さんと霧島のやりとりがおもしろから、この日の夜も楽しくなる予感がしていた。

 
 冴子さんは早速自分の仕事に取り掛かった。
 テーブルに降ろした紙の包みを素早くほどき、中にあった花材を手際よく寄り分けていく。

「央人、ぶーたれてないで客席の花器全部集めてきて」
「トレーはマスターに借りてきて」
 冴子さんは手を止めることなくてきぱきと霧島に指図した。
 霧島は心底嫌そうな顔をして見せながら、ヤル気なさそうに椅子から下りた。

 キッチンからガパオの匂いが漂ってきていた。
「あぁーいい匂い!」
「マスター、今夜は倉田家の分もお願いしたい!」
 冴子さんは僕が手渡したカウンター席のテーブル花を受け取りながら、その花を次々と袋の中へ放っていく。

「――ちょっと、あんたたち」

 僕は突然冴子さんにに睨まれた。
 なんだろうと思ったら、冴子さんは僕の隣に座るほとりちゃんに目を移し、それから花器の水を替えて戻って来た霧島も睨みつけた。

「いい加減にしなさいよ?」
 冴子さんの低い声に、僕は霧島と顔を見合わせた。
 けれど霧島はトレーごと花器をテーブルに置くと、冴子さんに背を向けて席に戻った。

 冴子さんは霧島とほとりちゃんの間に入ると、頬杖をつく霧島の肩に肘を置き、それからほとりちゃんの肩に手をまわした。

「かわいそうに、よっぽど辛かったでしょうね」

 冴子はほとりちゃんを憐れむようにわざとらしく声を上げ、僕の顔を覗いて溜息をついた。

「ったく、ほとりちゃんが居心地悪そうにしてるのが分からないの?」

「えぇ!?そうなの、ほとりちゃん?」
 僕は驚いてほとりちゃんを覗き込み、その真っ赤な顔にいっそう驚いた。
僕は全然気が付かなかったんだ。そういえばさっきからずっと顔は真っ赤だったけれど‥
「何で?どうしたの?なんか嫌なことあった?お腹痛いの?」
 僕はほとりちゃんの顔を下から覗きながら、
「霧島なら大丈夫だよ、怒ってないから、ね、霧島?」
とほとりちゃん越しに霧島を覗き込んだ。

 けれど霧島は相変わらずそっぽを向いたままだった。

「あのね、あいつはあれが普通だから」
僕はそう説明して、
「大丈夫だよ、心配しないでいいからね」と念を押した。

「だーかーら、ばかね、何をスットンキョーなこと言ってんのよ!」
 僕は冴子さんにほとりちゃんから引き離された。

「あんたたにはオトメゴコロってもんがなんにも分かっちゃいないのよ」
 冴子さんはそう言うとほとりちゃんの髪をそっと撫でた。
「ねぇ、このポンコツ二人組ときたらまったく」
「この子らに挟み撃ちになんかされたらぜーんぜんくつろげないわよねぇ」
 冴子さんは僕と霧島を交互に睨みつけながら顔をしかめた。
「かわいそうに、ごめんねぇ、この子たち、根はイイ子たちなんだけど」
「肝心なところが欠落してるのよぉ、ほぉんと、頭は賢いんだろうけれど」

 冴子さんのお説教が始まりそうなところへ、ちょうどよくマスターが戻って来た。

「やぁ、冴子ちゃんお疲れ様」
「今日は早いね」
 マスターは僕とほとりちゃんの前にガパオライスを置いた。
「二人とも、お待ち同様」
「さあ、どうぞ召し上がれ」

「ちょっと、ねぇマスター、聞いてよ、この子たちったら」
 マスターは苦笑して頷きながら僕にもスプーンを差し出した。

「夏目君はソーダ水だね、ほとりちゃんは何がいい?」
「あのねマスター、ほとりちゃんね、ちょっと具合が悪いみたいで…」
 僕はほとりちゃんを覗き込み、霧島も今度はまじまじとその様子を見つめている。
「だからやめなさいってば!あんたたちに両方からそんな風に見られてたらご飯食べらんないでしょう?!」
 冴子さんは苛立たし気に僕らの顔を押しのけた。

「ごめんねぇほとりちゃん、こういうところよねぇ、ほんと、足りないっていうか、抜けてるっていうか、ズレてるっていうか、とにかく果てしなーーーく残念なのよぉ」
 冴子さんはそう言って首を振り、お手上げのポーズをした。

 僕は冴子さんが何を言ってるのか分からなかった。
 僕たちの何がいけなかったのか聞いても、冴子さんは教えてくれなかった。
 そしてほとりちゃんは明らかに戸惑っていた。

 僕は急に申し訳ない気持ちになった。
 ここで待ち合わせしたのも、霧島と仲良くしてもらおうと思ったことも、僕の大きな勘違いだったのかもしれない。
「ごめんね、ほとりちゃん、僕ほとりちゃんがそんなに嫌な気持ちになってるなんて思ってなくて」
 そう言ってほとりちゃんを見ると、さっきよりももっと顔が火照っていた。

「ほとりちゃん?どうしたの?顔が真っ赤っかだよ!やっぱり熱があったの?!大丈夫?」
 僕はほとりちゃんが具合が悪くて辛いのに、なんの気遣いもしてあげなかったんだ。

「汗もかいてるし、ごめん、ごめんね、早く帰りたかったよね」

 僕はほとりちゃんの前髪をかき分け、おでこに手を当てた。
 とても熱くてよく見たら呼吸も浅いようだった。
 ほとりちゃんの顔は見る見るうちにゆでダコみたいになっていった。

「だーかーら!!ヤメロっての!!」
 冴子さんは僕の手をはたき、ほとりちゃんの前髪を直してやった。
「バカね!女の子の顔に気安く触んじゃないの!」
「っあっ…あぁ、そうか、ごめん!ごめんね、ほとりちゃん!」
 僕は慌ててほとりちゃんから離れた。
「冴子さん!やっぱりほとりちゃん熱があるみたいだよ!」

 僕が焦っていると、

「―――急に?」

 こちらを横目で見ながら、霧島はぼそりとつぶやいた。

 パンッという音と共に、霧島が「痛って」と声を漏らし、冴子さんはますます呆れた顔で溜息をついた。

「急にじゃないわよ!とっくのとうに気まずさMAXだったに決まってんでっしょーが!!」
「っとに…あんたたち、やっぱりバカなのね?そうなのね?」

「……あ、ああのすすみません、私、ち違うんです、あの、せ先輩たちは何も、はい、何も悪くないんです、全部私が…わ、私が来なければよかったんです……っっ―――」

 ほとりちゃんは絞り出すようにそう言うと、背筋を伸ばし大きく深呼吸をした。

「あの――ほんとに、すみません、ごめんなさい、ご迷惑をお掛けして――こんな時間に押しかけてきて――本当に、すみませんでした」
 ほとりちゃんはそう言って深々と頭を下げた。

「やぁだ、ほとりちゃんが謝ることなんか何もないのよ?悪いのは全部この子らなんだから」
「いえいえ、そんな、私、ただただ恐れ多くて、お二人と同じ空間にいること自体――しかもお隣に座らせて頂いて、お話までさせて頂いて…――ほんと、こんなとこ同じ学校の子に見られたら――――…」
 
 そう言うと、ほとりちゃんは両手で口元を覆った。

「―――どうしよう、……――大変…―――」

 それからの冴子さんとほとりちゃんのやりとりを、僕はきちんと説明できない。
 だって二人が何を言っているのか全然理解できなかったから。
 ただ唯一僕がほっとしたのは、冴子さんがこう言ってくれたからだった。

「いい?ほとりちゃんは具合なんか悪くないの!熱もないし頭もお腹も痛くないの!何でわからないの?」
 僕はそれで安心した。ほとりちゃんはどこも悪くなかったんだ。

「まぁまぁ、冴子ちゃん、彼らに悪気はないから」
 マスターは憤慨する冴子さんを優しくなだめていた。
「だからよ!だから尚更タチが悪いわ!!悪気もなければ自覚もない、おまけに他意もない!こういうのがイチバン迷惑なのよ!加害者意識ゼロで人の気持ち弄んで!!」
「いやいやいやいや…冴子ちゃん、それはちょっと言い過ぎ…」
「いいえ、現にほとりちゃんは二人をかばって自分が悪いなんて言って――言っとくけどほとりちゃんは完全なる被害者よ」
「これでもしほんとにほとりちゃんが心配している通りになってしまったらとばっちりもいいとこだわ!けどこの子らに他意はないときたら怒るに怒れないし、自業自得で損するだけよ!あと2年も学校生活があるっていうのに、どんな目に遭うか――!」
 語気を強める冴子さんに、マスターは半ば困ったような笑みを浮かべていた。
 
 僕はまた不安になって、マスターに尋ねたんだ。
「…ねぇマスター、さっきから冴子さんは何を言ってるの?」

「あんたたちのことよ!バカね!!」

 冴子さんは怒りに髪を逆立てていた。

「悪口」

「はぁ?」
 そして冴子さんの怒りの矛先は霧島に向けられた。

「ええそうよ、悪口よ!陰口じゃないんだからいいでしょ!当時者を目の前にして堂々と文句言ってるんだから!!」

 霧島はマスターからリンゴジュースを受け取り、知らん顔でそれを飲み干した。

「あんたたちは事の重大さってもんがこれっぽっちも分かってないのよ!てゆーかそもそも根本的に何一つ理解してないのよね!!」
 冴子さんがそう言い放つと、耐え兼ねたほとりちゃんがこう切り出した。

「あの、すみません!!自覚がないのは私の方でした!!」

 みんなが驚くほど大きな声だった。

「ごめんなさい、足りないのは私の方です!場違いでした、ほんと、すみません――私、ここへ来ちゃいけなかったんです、身の程知らずでお恥ずかしいです、ほんと――夏目先輩のお言葉に甘えてちゃっかりお呼ばれしてしまって、後先考えずにのこのこと…今更気が付くなんて遅いですよね、ほんとにごめんなさい!」
「お二人にもご迷惑をお掛けして、冴子さんにまで不快な思いをさせてしまって…あの、その――冴子さん、先輩方を叱らないでください、悪いのは全部私なんです、本当に、ほんとにほんとにごめんなさい――」

ほとりちゃんはそのまま俯き、身体を縮こませた。

ほとりちゃんは何度も謝っていた。

「ねぇ、マスター僕、ほんとに意味が分からないんだけど…みんなさっきからなんの話をしているの?ほとりちゃんはどうして謝っているの?」

「それに、冴子さんはどうしてそんなに怒っているの?」

 冴子さんは細く長い溜息をついた。

「そんな無垢な瞳で…まったく、ほんとになんにも分かってないのね」
「どうせ央人も同じでしょ」
「罪なヤツらよねぇ、ほんと」
 
 冴子さんの言葉にほとりちゃんも深々と頷いた。

 どうやら冴子さんとほとりちゃんと、それからマスターは話が通じ合ってるみたいだった。でも僕はわけが分からなかった。

 ほとりちゃんは僕と霧島が“こういうカンジ”だという話をしていた。とても真面目な顔で。

「…こういうかんじって、それどういう意味?」
 僕はほとりちゃんに聞いたけど、冴子さんがそれを遮った。

「ほとりちゃん、この子たち学校でどうなの?こんなふうに無神経に女の子たちを何人もキズつけてるんじゃない?その自覚もなくこうやって平気で知らん顔してるんでしょ」
「傷つける?僕たちが?」
「ほら出た、このカンジ、でしょ?当たってるでしょ」
 冴子さんはそう言って僕を指さした。

「冴子さん、僕たち女の子を傷つけるようなことなんかしないよ?なんでそんなこと言うの…ねぇ、霧島?」
 ほとりちゃんは「もちろんそんなことはしてません!」と強く否定してくれた。
 してくれたけど、「でも」と続けた。

「決して悪い意味ではないのですが――……いいイミで」
「お二人は、浮いてます」
 まさかの言葉に、僕はまたしても驚いた。
「浮いてるの?僕たち、…え?」
「あ、いいイミで、ですよ!いいイミで!」
「いい意味ってどういう意味?」
「あ、いえだからその、あくまでも、いいイミで、です!」

 ほとりちゃんは僕の質問に戸惑っていた。

「つまり、夏目君と央人はとっても人気者、っていうことだよね」

 言葉に詰まるほとりちゃんに、マスターがにっこり微笑んだ。

「っはい!そういうことです!!」

 ほとりちゃんはマスターを見上げ、満面の笑みで答えた。
 やっと表情が緩んだほとりちゃんに、マスターはほっとしたようにココアを差し出した。

「お二人は、うちの学校の人気者です!というか、アイドルです!!雲の上の存在、神です!!」

 ほとりちゃんの声高らかな宣言に、僕は唖然とした。
 驚きすぎて椅子から落ちそうになりながら、僕はほとりちゃんを見た。

 冴子さんだけがおもしろそうにほとりちゃんの話を聞きたがっていた。

 ほとりちゃんはさっきまでとはまるで別人のように自信たっぷりに、そしてしっかりとした口調で話し始めた。

 私は入学以来、ずっとお二人のカリスマぶりを目の当たりにしてきました。ご本人方を目の前に、こんなことを言うのは大変お恥ずかしいですし、私なんかが軽々しくお二人を語ってよいものかどうか、おこがましくもありますが…お二人の輝かしい高校生活の恐らくほんの一部分だとは思いますが、私の知る限り、誠心誠意を込めまして、お話ししたいと思います―――。

「おもしろそうね、ワクワクしてきた!」
 冴子さんはカウンターの上で両腕に顔をうずめて突っ伏している霧島の後ろ頭を片手で適当にいじりながら、興味津々に目を輝かせた。

 僕はほとりちゃんの声をちゃんと聞いていた。
 でもその話の内容も、ほとりちゃんの言いたいことも、ほとんど頭に入ってこなかった。
 
 でもマツミナの話をしていたことだけは覚えてる。

 僕らの高校に松永湊斗先生という体育の先生がいること、その先生は学校の大きな行事がある度に首から大きなカメラを下げて生徒の写真を撮ってまわってくれること。

「とても有難い、親切な先生なんです」
 ほとりちゃんは晴れ晴れとした表情で続けた。

「春の藤桜祭、ついこの間の体育祭のときも、私たちもたくさん撮って頂きました」
 それからその撮った写真は後日、職員室前の廊下に大量に貼り出されて、
「全部、丁寧に一枚ずつ番号がついていて、欲しい写真を選んで注文できるようにしてくれるんです」
 写真はいつもものすごい数で、それを見に来る生徒もものすごい人数だということ、ひとだかりで写真が全然見えないし、自分の写ってる写真を探すだけでも一苦労だということ。

「中でもお二人の写っているお写真は特別なんです」
 そう言ってほとりちゃんは僕らが全然知らなかったことを教えてくれた。

「お二人が写っているお写真は、実物を探さなくても番号だけはすぐに分かるんです」
「なぜかというと、それを見つけた子がその場ですかさず、必ずその番号を叫ぶからです」
「そして、誰ともなくその番号をメモして、その結果は集計され、その日の午後には学校中を回覧版になって回るんです」
「ほとんどの女子がそれを見て、注文用紙に書きます」

「本当に有難いシステムです」
 ほとりちゃんはしみじみとそう言って満足そうな笑みを浮かべた。

 冴子さんはけれど半ば呆れ顔でほとりちゃんの話を聞いていた。

 ほとりちゃんは冴子さんを説得するように一生懸命話していた。
 一生懸命すぎて興奮して迫るほとりちゃんに、冴子さんは珍しく身じろぎしていた。

 ほとりちゃんは僕と霧島が写っている写真には“ランク”があるとも言っていた。
その種類がたくさんありすぎて、聞き慣れなくて、でもなんだかおもしろかったことだけは覚えている。

「マスター、私この子の言ってることが頭に入って来ないわ」って冴子さんも言っていたくらいだ。

 ほとりちゃんに言わせればそれは“全生徒の共通認識”で、“写真の素晴らしさを表現する分類はだいたい20種類くらい”あるらしい。

「20?!」
「それと、ベスショの種類は25パターンくらいでしょうか。」
「25?!」
「あはははは!何それ!!」
 僕はあまりにも意味が分からな過ぎてわらっちゃった。

「なんなのそれ!‥ついていけないわ」
 ほとりちゃんの長い長い説明に冴子さんは疲れたような表情で吐き出した。
 そして「あんたが無関心なのも分かる気がする」と霧島の髪に指を滑らせた。

「つまり、そういうけったいなシステムがあるから、実物を見なくても注文できるってことなのね」

「はい!私は、とりあえず全部買います!」

 ほとりちゃんは頬を高揚させて話を続けた。

 僕にはほとんど他人事のようで、ただただお腹を抱えて笑っていた。

 ほとりちゃんはその後もマツミナにはどれだけ感謝しているか、マツミナがどれだけ生徒のために努力しているかを力説していた。

「確かに、あの人いっつも必死だもんね!“オレのバレンタインが”とか“オレのクリスマスが”って毎回口グセみたいにさ!」
 僕はカメラを持ってやって来るマツミナを思い出して爆笑した。

「“オレのバースデーが!”っておっかしいの!ねッ霧島!」
 その僕の言葉に、冴子さんの目元がつり上がった。
 マツミナはしょっちゅう僕たちに“キミたちの協力が必要なんだ!”って言っていた。“ボクの教師生活は君たちにかかってるんだ”って!

 霧島は頭に冴子さんの手を乗せたまま、うつぶせの姿勢から顔を少しだけ上げて、
「すっげぇめーわく」
とこぼした。
 
 マツミナは霧島が寝てるとこにもお構いなしにやってくる。そしていつも無理やり起こしてポーズを取らせて、しかも大抵その要求の言ってる意味がよく分からないんだ。

「どうしたらいいのって、僕もけっこう困るときあるよ!」

 冴子さんは目をいっそう吊り上げて、ほとりちゃんに聞いた。
「ねぇほとりちゃん、その先生って一体…この子たちの写真とバレンタインと何の関係があるの?」

 その時冴子さんはマツミナが“生徒相手に商売してる”“ヤバい先生”だと言っていた。

「いえいえ、そうではないです!マツミナ先生は、そんなんじゃないです」
 ほとりちゃんそうきっぱりと否定して、マツミナが生徒にとってどんな先生なのかを説明していた。

 マツミナは写真を撮ってくれるだけでも有難いのに、それを全校生徒の注文分全部焼き増ししてくれて、そのお代は全部半額にしてくれるんだって。

「私たちにとっては良いことしかありません!」
 ほとりちゃんはそう言ってから、そのお礼として女子の中には先生にプレゼントを渡す子もいると話した。
「バレンタインとか、クリスマスとか、先生のお誕生日とかに、日頃の感謝の思いを込めて」
 けれど冴子さんには納得いかなかったみたい。
「なによそれ、いいように言っても結局先生の目的はそこじゃない」
と不満そうに霧島の髪を掻き混ぜた。

「だって女子高生からのプレゼント欲しさにこの子らの写真を撮りまくってるってことでしょ?不純な臭いしかしないわよ」
「――いえ、…まぁ、…これも先生と生徒のコミュニケーションの一つといいますか…それよりなにより、先生は私たち個人では決して実現不可能なことを成し遂げてくださっているので――」
 俯きがちに言い淀むほとりちゃんに、冴子さんはすかさず「不可能って?」と突っ込んだ。

 それからのほとりちゃんの説明も僕からしたら支離滅裂だった。


「それはつまり、“グッジョブ”、です」
 ほとりちゃんの言葉に冴子さんは不愉快そうに顔をしかめた。

「私たちは、自力では決してあんな“グッジョブ”を撮ることはできません」
「あ、“グッジョブ”というのは、つまり、その…」
 ほとりちゃんは僕らをを交互に見ながら顔を赤くした。

「いわゆるベストショット、ということかな」
 カウンターの中から助け舟を出したマスターがにっこり微笑む。

「はい!そうです、それです!ベスト・ショット!!」

 伏せた霧島の髪を鷲掴みにしたりかき混ぜたりしながら、冴子さんは不満そうに鼻を鳴らした。

「ふぅん」
「ベストショの種類はいっぱいあるんです!」
「さっきの‥20何個ってやつ?」
「はいそうです!!」
 ほとりちゃんはまたしても聞き慣れない単語を一気に並べ、冴子さんを戸惑わせていた。

「イチオシ、激オシ、激萌、萌々、盛萌、グッジョブ、サンクス、ウケ、ノリウケ、アジ、レア、激レア、マジレア、フィーバー、」
「ちょっとちょっと、何?なに言ってるの?」
「ベストショットの種類です!まだまだあります!」
「わかった、もういい、もういいわ、その違いもよく分からないし、分からなくてもいいし」
 
 僕は訳が分からなすぎて大笑いした。
「あんたはさっきから笑いすぎ!何がおもしろいのよ!」
「だって!あはははは!おもしろいんだもん!あはははは!!」
「また他人事みたいに!自分のこと言われてんのよ!!」
「あはははは!マツミナっておもしろいんだよ!こだわりがハンパなくてさ!いっつも注文多すぎで笑っちゃうんだ!もらった写真見てもその時のこと思い出してまた笑っちゃうの!!あはははは!!」
 手を叩いて笑う僕の横で、ほとりちゃんも頷きながら楽しそうに笑っていた。

 マツミナは行事とかイベント事とかがなくても、何でもない日でも、廊下でたまたま会っただけで“そこの窓から外見て”とか、“そこの壁に寄りかかって”とか、“そこにしゃがんで目だけこっち”とか言いながら、あっという間に何十枚も写真を撮っている。

 この前なんかわざわざ北棟の階段まで連れて行かれて、“8段目まで登ったら振り返って見下ろして”って言われてさ!
 笑っちゃダメって言われたけど無理だよ!だってマツミナってばへんな姿勢でこっちにカメラ向けてくるんだもの!
 それで僕はNG連発して全然OKでなくて、結局授業に遅れちゃったんだよ!
 ほんとマツミナっておもしろいよね!!


「全っ然面白くなんかないわよ!!!」


 冴子さんは霧島の髪を搔き乱しながら声を上げた。

 
 それからは冴子さんのお説教タイムだった。
 冴子さんに言わせれば、マツミナは先生の立場で生徒を授業に遅らせるなんて許されないのだった。マツミナは勉強の邪魔してるって。
 でも僕らからしたらそれは大したことじゃなかった。
 
 だから僕は冴子さんにこう言った。

「大丈夫だよ冴子さん、遅れた理由をちゃんと話せば」
 マツミナに捕まってたって正直に言えば、たいがいの先生は許してくれるよ。

「モンダイはそこじゃないっつの!」
 冴子さんは全然納得してくれなかった。

「教師として、生徒の貴重な勉強の時間をムダに搾取するってことはあってはならないことだって言ってんの!!分かる?!」
 冴子さんは霧島の後ろ髪を指でむしるように引っ張ったりつまんだりしながら声を震わせた。

「俺はもうムリ」
 霧島がうつ伏せの腕の中でそうぼやいて、僕は大笑いした。

 だって霧島ウソつくからだよ!
「ミナトのやつ、裏切りやがって」
 霧島は一度、ただのサボりの時でもマツミナに捕まってたことにして、それがザマスにバレて後からめちゃくちゃ怒られたんだ。

 そう言えばいつだったかマツミナに霧島は?って聞かれた時、屋上じゃない?って答えたら‥

「教えんなよ」
「あははは!だってあの時も先生必死だったんだもん!枚数は1枚でも多い方がいいからって!」
 マツミナは”今日は空の青さが”とか、”霧島と自然の共生が”とか、一人でブツブツ言っていた。

「ばかだろあいつ」
「あはははは!」
「人がせっかく気持ちよく寝てたってのに」
「やっぱり起こされたんだ!あはははは!」
「マジうぜぇ…」
 霧島はうめくように吐き出して、僕はお腹を抱えて笑った。
「あいつは体育教師のスタミナがクソ」
「あはははは!確かに!」
「ポジティブ暴走ヤロウ」
「うんうん!あはははは!」

 そしてほとりちゃんは、マツミナが“フォトブック”を作っていることも教えてくれた。

「フォトブックぅ?」
 冴子さんは怪訝な声を上げた。

 お二人のご卒業まで残りあと半年あまり、時間もさし迫ってきている中、先生は少々焦りを感じてきているようでして。フォトブックはまだ半分も出来上がっていないとのことですが、予約販売の受け付けは着々と準備が進められているようです。前代未聞の取り組みなので、先生お一人ではとても手に負えないとのことで、ボランティアでスタッフの募集がかかったのですが、応募者が殺到しすぎてしまい、結局先生はお一人でなんとか頑張ることにされたようです。
 先生はなるべくギリギリまでお二人の写真を撮りため、何なら卒業式の日も写真に納めたいと言っていて、販売はその数か月後になるのではないかと――。
 全校生徒の強い、熱い要請と、無限に広がる夢と期待と、それらを全てお一人で背負い、先生は今、その大きな大きな想いに応えるべく、日夜奮闘なさっているのだと思います。先生なら、必ずや、私たち女生徒の夢と希望を丸ごと全部汲み取り、それらを全て余すことなく、一滴の無駄もなく、想像を超える感動を叶えてくださると信じております。

 ほとりちゃんの解説に、冴子さんは呆れ果てていた。
「ここまでくると、もはや感心するわ」

「大変な人気ぶりだね」
 マスターはそう苦笑して霧島に目をやった。

 冴子さんは霧島の寝癖を指で適当に撫でつけながら、
「持ち上げられたものね」と鼻を鳴らした。

 僕は笑い疲れて、やっと一息、ソーダ水に手を伸ばした。


「なのに、この子たちときたらこんなんで」

「――はい」

ほとりちゃんはなぜか神妙な顔で
「そうなんです、本当にすごいんです」
と切り出した。

 お二人はすごいので、…すごすぎるので、私の、今のこの状況は、つまりお二人と同じ空間に居るという‥しかもお二人のプライベートな場所、お二人のプライベートな間柄にある方たちと同じ時間を過ごしているという――それは本当に信じられないというか、――あり得ないというか――あってはならないというか……現実とは思えないことで――もはや夢なんじゃないかって、これは私の都合のいい夢の中で、というか夢にすらみてはならないことというか―――…。

 そう話すほとりちゃんの言葉を遮って、冴子さんは
「あら、ちょっと待って」と霧島に目をやった。

「そんなことより、大事なことをスルーしたような気がするわ」

 冴子さんはマスターにも同意を求めるように
「おかしいわよね?」
と霧島の髪を手のひらで混ぜながら、低い声を出した。

「央人、あんたまた授業サボって屋上で寝てたの?」
 霧島は眠そうな不意を突かれ息を詰めた。
「呆れた、あんた高3にもなってまだそんなことやってんの」
「てゆーかその先生やっぱ問題あるでしょ、サボってる生徒捕まえて注意どころか写真撮らせろって、どうかしてるわよ」

「そうそう!屋上でね!」
 僕はその時のマツミナの指示がいつにも増して意味不明で笑っちゃった。
「えっと、待って思い出すから、えっとまず、“柵に寄りかかって、空を見上げて”、そして目線は…っとなんだっけなんだっけ?」

「――眩しそうに、少し目を細めながら、”青空を映した瞳で斜め上から目線をこっちに”」

「あははははは!!あはははははは!!難しい!なにそれ、どうやんの?!どこ見たらいいの?空なの?カメラなの?あははははは!!」
「――…超うぜぇ、超面倒、超来ないで欲しい」
「あははははは!でもさ、でもさ、マツミナすっごい喜んだでしょ?!あの空の色は今しかなかったって、わざわざ戻って来て僕にまで感謝感謝言ってくれたんだよ!」
 ほんとマツミナっておもしろいよね!

 霧島は両手で顔を覆い、ため息混じりにうめいた。
「あはははは!あはははは!!」
 撮影の後、マツミナに両手を握られ“引きちぎられるかと思うくらいブン回され”ながら“ありがとうを大声で連呼された”霧島は、「始終不愉快でしかない」と心底迷惑そうに顔をしかめた。

“マツミナ”は“いつの間にかすぐそこにいる”から、“逃げる間もない”。

「どこで聞きつけて来るのかね!ほんとすごいよねあの人!」
「――ウザミナ」
「あはははは!!あははははは!!」

「ちょっとあんたたち!!」


 お腹を抱えて笑っていたら、冴子さんが怒りの声を上げた。

「さっきから何の話してんのよ?人の話聞いてた?」

 僕はそうは言ってもなかなか笑いが止まらなかった。
「ねぇマスターからも何か言ってやってよ、この子たち何も分かってないわ」

 食後に焼き立てのチョコチップクッキーを持って戻って来たところへ話を振られ、マスターは改めて皆を見回した。
 再び顔を腕の中に伏せてしまった霧島と、困惑した表情のほとりちゃん、    
その隣で僕は笑い続けているし、冴子さんは目を吊り上げているし。

「どこの高校も先生なんてたいがい個性的で独特だけど、生徒を正しく指導できないどころか自分の欲求のダシに使うなんてもうアウトでしょ?」
 冴子さんは霧島を睨みつけながらそうマスターに訴えた。

「冴子さん、マツミナはちょっと強引なところもあるけど、おもしろいよ」
「僕たちもう慣れっこだから、大丈夫だよ」
 僕は笑いをこらえながら冴子さんに言った。
「だからあんたは一番なんにもわかってないっつってんの!」
 冴子さんは僕に握りこぶしを振り上げる真似をした。
「えぇ?」
「えぇ?じゃないわよ!おもしろくもなんともないし、慣れるほど同じようなことをされてるってことでしょ?そんな先生教師失格よ!」

 そして話はやっぱり霧島の“サボリ癖”に飛んだ。

「あんたいったい学校に何しに行ってんの?写真撮られに行ってるわけ?せっかくあんないい高校に――みんなが羨む名門・藤桜高校に通ってるっていうのに」
 冴子さんは霧島の後ろ頭をの中でグーパーを繰り返し、髪の毛を搔き乱した。
「ろくに勉強もしないで優雅にお昼寝?あげくフォトブックですって?」

「冴子ちゃん、央人はもう3年生なんだし」
 マスターは冴子さんの手元に笑いながら、
「二人とも成績はトップクラスなんだから、まぁいいんじゃないかな」
「はぁ?!マスターまで何言ってんの?!」
「いや、ほとりちゃんの話を聞いていると平和で楽しそうないい学校じゃないかって‥まぁ大きな問題にはなっていないようだし‥」

「問題アリよ!大アリよ!!ありアリのアリよ!!もうっ!マスターはいっつもそうなんだから!」

 ご立腹な冴子さんの言い分はこんな感じだった。
 成績の良し悪しは関係ない、そもそも授業をサボること自体悪いことで、それをしっかり正すのが教師の仕事だということ。
 今はよくたってこんなんじゃ社会に出てもロクな大人になれない、協調性のかけらもないルールも守れないんじゃやっていけない。
 冴子さんはうつ伏せの霧島の頭に指先を突き立てながらこんこんとお説教していた。

「いい?央人、社会ってのはあんたがそんな風にスカしてられるほど甘くないんだからね、いつまでも自分勝手にやりたいことだけやってたらいつか痛い目に遭うわよ」
「社会に出たら、今までみたいに周りがチヤホヤしてくれたり、いつでも助けてくれると持ってたら大間違いなんだから」
「今は天才だか神童だかなんだか知らないけど、もてはやされてかつがれてなんでもウマくいってると思ってるでしょうけどね、あんた一人の力でそうなってるわけじゃないのよ?みんながそうさせてくれてるの」
「社会に出ても今と同じでいられるなんて思ってたら大変なことになるんだからね、世の中そうカンタンにはいかないのよ、そこんとこわかってんの?」
 冴子さん今度は両手で霧島の髪をぐしゃぐしゃにしながら小言を続けた。
 その間、霧島は一度も顔を上げようとはしなかった。

と、それまでじっと周りの様子を伺っていたほとりちゃんが、突然気が付いたように声を出した。

「っっ…!フフォトブックはっっ…!松永先生が3年間お二人を撮り溜めたっ……お二人の写真がたっっっぷり納められる予定だそうですっっ……!!」

 その大きな声に、霧島は驚いて顔を上げた。

 皆がほとりちゃんに注目する。

「お二人の、超レアな秘蔵写真――」
 ほとりちゃんは“憑りつかれたように”しゃべりだした。

“激熱で、激烈な”、“萌々間違いナシの”
 僕たちが1年生の時の写真を拝見できると思うと――って、それがすごく楽しみなんだって。

「私たちの知らない、初々しい時代の先輩方のお姿をみれるなんてもうっ…夢のような話で……っっ……ほんと感無量で……まさに、マツミナ・グッジョブ!!って感じなんですっっっ……!!」
 ほとりちゃんは胸元に両手を当て、斜め上を見上げた。

 マスターのクッキーはまだ温かかった。
 チョコレートが少し溶けていて、甘くて、幸せな触感で‥

 僕は、だけど一つ疑問があった。

「マツミナって卒アル担当だったっけ?」
 マツミナは2年生の先生だし、今年の卒アル担当は新藤先生だったはず。
 丸山先生でも尾形先生でもなかったと思う。
「写真だけ提供することになったのかな」
 僕が霧島にそう尋ねると、
「オンスがやるわけねぇよ」
と霧島は冴子さんの手を払うように後ろに伸びをしながら言った。
「あははは!そうだよね、丸山先生はきっと断るね!“イエ、ワタクシハ、ケッコウデス、ハイ、”とか言ってね!」
 僕がモノマネをすると、ほとりちゃんがぷくっと吹き出した。

「サトリが作った卒アルなんかヤバそうだし」
「あはははは!あれだね、生徒個人の写真が元素記号一覧みたいに並んでそう!赤線と青線と緑の線が至る所に引いてあってさ!」
「どれが一番重要なのかわかんねぇやつな」
「あはははは!あははははは!」
「そもそも写真が少ねぇだろうな」
「うん、うん、あははは!サトリ先生が僕たちの写真撮ってるとこなんか見たことないしね!」
「あったとしてもアングルがほぼ盗撮」
「あはははは!だね!すっごく遠くからとか、何かの陰からとかでしょ!」
「こえー、いらねぇ」
「あはははは!それでさ、写真が少なすぎて、余白に化学式とかめっちゃ載せちゃうの!」
「途中式も」
「あはははは!あはははは!構造式の赤と青と緑が至る所に!」
「――オメガ」
「あはははは!あはははは!!そうそう、オメガ!最終的にはもうオメガの写真だらけかもね!」
「化学式よりマシだけど」
「そうだね!オメガかわいいし!先生溺愛してるもんね!あはははは!」
「つか卒アルなんかどーでもいい」
「あはははは!だね!!あはははは!」

 そして霧島は眠そうに顔を伏せ、僕はソーダ水を口に含んだ。

「つかその身内ネタ、全然分かんないし」
 冴子さんはソファ席に体をうずめた。

「だいたい、ほとりちゃんは卒アルの話なんかしてないけど?」
 冴子さんはつまらなそうにそう言ってほとりちゃんに「ねぇ?」と同意を求めた。
 僕はそれで冴子さんに先生たちの紹介をした。
「あのね、オンスっていうのは数学の丸山先生のことで、下の名前が苑水だからオンスなんだよ」
「それと、サトリっていうのは化学の尾形先生のことで、大事なところはチョークの色を変えて線を引くんだけど、結局色のとこが多すぎてどれが重要なのか分からないの!おもしろいでしょ!」
「それにね、オメガの話になると止まらなくて―あ、オメガっていうのは先生が飼ってる犬のことで――」
 
 だけど冴子さんは
「先生のあだ名の話はどうでもいいの!フォトブックの話だってば!」
とテーブルを叩いた。
 
「―?だから、卒アルでしょ?」
「あれ?今年からフォトブックって言うようになったんだ?」
 僕は知らなかったから、ほとりちゃんに尋ねた。

「だから違うっつってんの!あんたってほんと人の話聞かないわね」
「卒アルっていうのは卒業生全員のものでしょう?マツミナ先生が作ってるフォトブックは、あんたたち二人の、二人だけの、いわゆる写真集みたいなものよ、分かる?二人だけの写真集を、特別に制作してるんですって!卒アルとは全く別物!いい?それとは別に、先生が個人で、あんたたち二人がメインの写真集を、わざわざ個人的に作ってるってこと!」

 冴子さんは最後に「相当ヤバいでしょ」と付け足した。

「へぇ、そうなんだ…写真集かぁ…!あはははは!」
「何がおかしいの?」
「えー?だってやっぱりマツミナっておもしろいなぁと思って!あはははは!」

 マスターのクッキーはおいしくて、マツミナのこともおもしろくて、僕はたくさん笑った。

 それからほとりちゃんはどういうわけだか沈んだ表情で冴子さんを振り返った。
 ほとりちゃんは深刻に何かをずっと訴えているようだったけれど、その内容はやっぱり僕にはよく分からなかった。

 ほとりちゃんの話がひと段落すると、冴子さんはとても納得したように大きく頷いた。
「――ええ、そのようね」
 冴子さんは霧島の横に立ち、
「当の本人たちがこんなんだもの、それはそれは女子のみなさんのご苦労が絶えないでしょうね…」
と溜息をついた。
「高校生の、多感な時期なら尚のこと」

 ほとりちゃんはさらに真面目な顔つきで話しを続けていたけれど、僕にはやっぱりそれが何のことなのか理解できなかった。

 
 そしてほとりちゃんの話が終わる頃には、冴子さんは大きな溜息をついていた。

「なるほどね、自覚のないイケメンてタチが悪いわね」
 
 小さく寝息を立てる霧島の髪を指に絡めながら、冴子さんはふん、と鼻を鳴らした。

 すっかり冷めたガパオライスをようやく食べ終わると、ほとりちゃんは丁寧に両手を合わせた。
 僕はそれを見届けてから、「ほとりちゃん、体調はどう?」と顔を覗いた。するとほとりちゃんは思い出したように頷いた。
「ほんと?よかった、安心した!」
 僕がそう言うとほとりちゃんの顔がまた見る見るうちに真っ赤になった。

「さつまいものプディングはいかが?」
 マスターは空になったお皿を片付けながら、僕らの前にデザートを出してくれた。
 黄色の四角いキャラメルソースがけの、上に白い生クリームを絞ったマスター特製のだ。

                 
                 ◆


「央人、たまには朝ご飯と夕ご飯、何がいいかリクエストしなさい」
 立ち上がった霧島の背中に冴子さんはそう声を掛けた。

「てゆーかたまにはうちに食べに来なさいよ」

 マスターはドアの前で紙の袋を霧島に渡した。
 生クリームとキャラメルソースはアルミのカップに入れてある。
 今日中に食べないなら冷蔵庫に入れておくんだよ。
 

「霧島、おやすみ!」
 僕の声のすぐ後で、ほとりちゃんは椅子から立ち上がった。
「おやすみなさい…っ―霧島先輩――!」
 ほとりちゃんは大きな声でそう言って頭を下げた。

 霧島はやっぱり振り返らずにドアの外へ出て行った。


 あの夜の僕のミッションはそれから間もなく遂行されることになる。

 ほとりちゃんは少しずつ僕らと一緒にいることに慣れてくれた。

 霧島はその後もほとりちゃんの顔を覚えていた。

 
 僕はそれがとてもうれしかったんだ。

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