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「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出⑧』

「秋風」


“できることが仕事になっただけ”

 俺は聖のあの言葉がずっと気になっていた。

 俺は聖の仕事を見るのが好きで、休憩中でも仕事中でもおかまいなしに遊びに行っていた。
 作業中の聖の手先を見ていると、俺は不思議な気持ちになった。
 今目の前で、聖の手によって整備されているその車が、たとえ廃車寸前であろうと、そのボロボロの鉄の塊が、うらやましい――
 それまで感じたことのない感情。けれど妙に心地よく思えた。

 その繊細な指先も、硬い重そうな工具も、淡々と、ただ機械的に動いているだけなのに、必要な個所で必要な分の処理をしているだけなのに、それは単なる流れ作業には見えなかった。
 少しずつ整備行程が進んでいくうちに、まるでそこにある車が喜んでいるような、すっかりくつろいでいるようにも見えてくる。
 例えるならそう、犬や猫が飼い主にブラッシングをされている時のような、あんな感じだ。

 その感覚はけれど俺にとって酷く違和感のあるものだった。
 作業中の聖の動きは機械の一部みたいで、一見無機質で何の感情も垣間見られない。
 なのにあの鉄の塊にはある種の感情や温度があるように見えたんだ。

 ファインダー越しのその光景は、無知な俺からしたら独特なものだった。

 何をどうしてそこをいじっているのかも分からないし、次に何をするのか想像もできない。だからこそ次の展開が気になっておもしろいというのもあるけれど、それ以外にもある種の信頼関係のようなものがそこにはあった。

“できることが仕事になっただけ”

 だから俺には、とてもあんな気持ちだけで整備士を続けているとは思えなかった。 
 あの雰囲気は――車でもバイクでも、向き合う機会から醸し出される安心感のようなものは、聖の仕事への情熱がそうさせているはずだった。
 

 俺は子供の頃から職人の仕事をする手を見るのが好きだった。

 整備士の仕事をしている聖の指先の動きは俺にとって遊園地のアトラクションやゲームのようなワクワクや爽快感をくれるものだった。
 常に的確で、手早く、おもしろい程スムーズに、見る見るうちに作業が進んでいく。
 それは芸術的で、一つの無理も無駄もなく、一瞬の迷いも狂いもなく、だからやり直しも後退もない。
 例えば天才外科医が患者の負担を最小限に抑えて行う超難関手術のように――さっきまで人間に引きずられていた鉄の塊が、あいつの手にかかるとその使命を思い出したように息を吹き返した。

 俺の写真は聖の手元にクローズアップしたものが増えていった。
 銀色のごつい工具を握る黒ずんだ指、汚れた布で車体を拭く傷だらけの手の甲。
 入り組んだ部品の中に突っ込んだ細い腕――肌の白さが妙に際立って美しく見えて思わずシャッターを押した。

 聖はよほどのことがなければ手袋も軍手もしなかった。
 だから手はいつも油で黒くすすけていた。
 毎日のことだし、油汚れが皮膚に染みついて洗っても落ちないのだ。
 聖のファンたち――とりまきの女の子たちに言わせれば、“こんなピアニストみたいなきれいな指なのにいつもガソリンやらベンジンやらで汚れてるから、素材と外身が完全にミスマッチ”な聖の手も、俺にしてみればむしろそのミスマッチこそが魅力だった。

“聖の働く手シリーズ”は日増しに増えた。

 本人はもちろんそんなこと気にもかけていなかった。
 俺も一度くらいは聞いたことがあったけれど――
“みんながおまえの手がキレイだって”
“そういうのどう思う?”
 口に出したそばから無駄だと分かっていた。
 案の定、あいつはきょとん顔だし、俺だってそんな当たり前のことをわざわざ聞いて恥をかいたような気持ちになった。

 せめて軍手をして欲しいという意見と、素手を見たいから手袋はしないで欲しいという意見。それらは女の子たち一人一人が抱えていた葛藤だった。
 けれど彼女たちがどんなに懇願しようと、聖はその訴えを聞き入れる姿勢もなければ聞く耳すらなかった。
 笑っちゃうくらいの宝の持ち腐れ。
 嘆きの声を背に、あいつはいつも通りあの“手タレ顔負けの美しい手指”で、素手で塗装用のスプレーを握り、仕上げのオイルを塗っていた。
 

“聖は本当にこの仕事が好きなんだな”

 ある時、俺はうっかり口にしてしまった。

 快晴の空の下、整備が済んだ白いプジョーのミニバンを洗っている聖を眺めながら、

 車が喜んでいるようだ

――そう感じた瞬間、口をついて出た言葉だった。

 俺自身気付かないくらい自然と、まさに口をついて出た言葉で――聖が振り向いたことで、声に出してたんだ、って気付いた。

“――航平はおもしろいな”

「――……。」

 相変わらずセリフと表情が全く合ってないなと思った。

“おもしろい”だなんてこれぽっちも思っていないような無表情。

“航平はおもしろいな”

 俺はその言葉の意味を追求する気持ちも起きなかった。
 あの表情で、おもしろいな、って言われたら、もうそれを受け入れるしかない。
 不思議なことに、なんで?っていう気持ちが湧かないんだ。

“航平はおもしろいな”

 その言葉の響きに、それを受けた自分の何とも言えない気持ちに浸ってしまう。


それは多分、あの目が――


初めて会ったあの日、

“無意識に目を奪われた”

“どこまでも遠く、深く、吸い込まれていく感覚―…”

切れ長の、何も見ていないあの瞳を知っているから。

それは広い海の――穏やかに漂う凪のような――

遠い――海と曖昧な空の境界のような――

深い、深い――果てしない静寂のような――――………
 


“できることが仕事になっただけ”


 例えば油が切れただけの軽トラだって、バンパーが凹んだだけのワゴンだって、あいつの指先ひとつで魔法がかかったみたいに、まるで小躍りしているように見えた。
 
 あの言葉がどうして引っ掛かっているのか

 俺はきっと、寂しかったんだ。
 
 そして悔しかったのかもしれない。
 
 あんなに車が喜んでいるのに。
 
 こんなに俺は感動しているのに。
 
 
 でもきっと、“そこ”じゃなかったんだ。
 
 聖はあの頃もずっと、初めて自分一人で直して見せたあのクラシックカーと同じことをしていただけなのだろう。
 
 軽症だろうが重傷だろうが、自分のできる限りを尽くす。
 ただそれだけだったんだ。
 
 聖は毎日、傷ついた鉄の塊と向き合いながら、細かい手作業そのひとつひとつ、その度に、「生きろ」と言い続けていたのかもしれない。
 
 
 自分自身に言う代わりに。
 
 もしかしたら、

 自分自身に、無意識に。

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