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「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出⑩』

「次元」


 あの日俺が鳳山(おおとりやま)のカーブで転倒していなかったら、そして両足をケガして桜の森病院に入院していなかったら、あの二人はきっと出会わなかった。

 俺は勝手にキューピッドだと名乗り、浮かれていた。

「二人が出会ったのは、俺のお陰と言っても過言ではないのだ」

 もちろん今でもそう自負している。


 ケガは思いの外長引いた。
 手術後のリハビリも大変だった。
 そして何と言っても暇だった。
 体は元気だから一日中ベッドの上にいることのしんどさったらなかった。

 けれど意外なことに、聖が時々お見舞いに来てくれた。
 毎日暇で暇で仕方なかったし、話し相手は隣のベッドのフミさんか看護師の松本さん、それから看護師補助の村井さんくらいだった。

 聖が来てくれても俺は動けないから何をするわけでもなし、病院にいるだけでこれといって話題もないから、聖はただ窓の外の景色を眺めているだけだった。
 俺はたまにそんな聖の姿をカメラに収めたりしていたけど、俺たちはすっかり時間を持て余していた。

 そんなある日、聖が窓の外を見つめたまま、ぽそっと言ったんだ。
“桜が満開だ”って。
 俺の病室からは桜の森公園の桜がよく見えた。

 俺もベッドの上から見てみると、その景色は前日とはまるで違っていた。
 真っ青な空を背景に、淡いピンク色の絨毯が眼下に広がっていて――確かに、聖が口にするだけのことはある――それほど美しいこれぞ絶景という景色だった。

“…桜が満開だ”

 聖が言うくらいだ、せっかくだから俺たちは公園まで行ってみることにした。
 まだ外出禁止の身だったけど、聖に車いすを借りてきてもらって、二人でこっそり病院を抜け出した。

…と、ここまではよかった。
 いざ外へ出てみれば、あまりにも絵に描いたようなお花見シーズン真っ盛りって人だかりに、聖は公園を目前に足を止めた。
 考えることはみんな同じだ、こんなに素晴らしい景色だもの。

 真っ先に思ったのは、聖が人混みに紛れている画が思い浮かばないってことだった。
 絶対苦手に違いないし、それに俺だって車いすであんな身動きとることすらままならないような場所へ率先して乗り入れようという気は起きなかった。
 それで俺は後ろに立つ聖を見上げて、戻ろうか、って言おうとしたんだ。
 きっとこいつもあそこへは行きたくないだろうと思った。

 けれど聖の視線はどこか遠くを見つめたまま動かなかった。
 俺は一瞬で聖の変化に気付いた。

 それは今までに見たこともない表情だった。

 俺は半ば緊張して視線の先に目を向けた。

 豪華絢爛、絵に描いたような満開の桜の森の下、白い砂地を埋め尽くすほどの人だかり――無数に群がる人々の、ごくごく僅かなその隙間を繋いで、細い一筋の道が伸びていた。

 遥か遠く、その道の先の先に、聖の瞳は一人の女性を捕えていた。

 あの時の、下から見上げたあいつの表情を、俺は今でも鮮明に覚えている。

 その細い長い道は、まるで聖を志緒ちゃんの下へ導いているようだった。

 それから少しずつ横に広がり、人だかりは徐々に2つに分かれていったんだ。

 聖と志緒ちゃんは、その奇跡の道の両端に立ち、まさに運命の出会いを果たした。

 俺はあの時、あの瞬間に立ち会ったんだ。


 少しずつ、聖は前へ進み始めた。
 俺は車いすの上でドキドキしていた。
 これは大変なことになると確信していたからだ。

 これは大変なことが始まる。
 大変な――俺の人生で一番の幸せが訪れた――

 決して大げさではなく、本当にそんな予感がしていた。


 初めて見た志緒ちゃんは、“桜の妖精”そのものだった。
 満開の桜の木の下で、粉雪のようにふわりふわり舞い散る花びらに包まれるように佇んでいた。
 遠くからでもその清らかなオーラが輝いて見えた。
 おとぎ話の中のお姫様か、神話の世界の女神様か――俺はその人並外れた神秘的な存在感に、すっかり見惚れていた。
 夢の中にいる心地、とでもいうのか、その何とも言えない愛らしさに、俺は一瞬で心を丸ごと奪われてしまった。

 あの時はそこにいる聖のことなんて気に掛ける余裕はなかった。

 けれど俺だけはすぐに現実へ引き戻された。
 直ちにこの場から逃げ出さなくてはならない事態を察した。
 向こうに村井さんの姿が見えたからだ。
 
 後から分かったことだけど、一般の入院患者の看護師補助もしていた村井さんは、普段は志緒ちゃん専属のお世話係だったのだ。

 あの日は志緒ちゃんの付き添いで公園に来ていた。
 村井さんはもちろんとてもやさしい看護師さんだった。
 怒られたことなんか一度もなかった。
 時々内緒で自家製のハーブティーなんかももらったりしていたし。
 でも俺は咄嗟に、無断で外出したことを怒られる!と体を縮こませた。

 けれど志緒ちゃんを目の前にして、俺は再びその現実から外れてしまった。

 それくらい、志緒ちゃんとの出会いはそ衝撃的なものだった。


 志緒ちゃんという女性は言葉で説明しきれない人だった。
 通り一遍にかわいらしいとか、美しいとか、言ってしまうのは簡単なんだけど、そんなありきたりの表現では言い尽くせない、人外な魅力を纏った人だった。

 これは決して言い過ぎではない。

 あの日、俺はまるで物語の世界にいるようだった。

 志緒ちゃんの得も言われぬ存在感は語り出せば切りがない。

 志緒ちゃんの姿形は近くで見ると驚くほど“非現実的”造作だった。
 顔は俺の手の平の部分より小さくて、肌はまさに陶器のような白さだった。
 ほんのり薄ピンク色に染まる頬に、栗色の腰までかかる長いウェーブ、ひざ下の辺り揺れる真っ白なワンピースがとてもよく似合っていた。

 風がなびくようにこちらを振り向いた志緒ちゃんは、その全身を縁取るように光輝くオーラを纏っていた。
 ふわりと風に上がった栗色の前髪、垣間見えた白い額。
 小さな丸顔に、濡れたように黒い大きな瞳が、透けるように白い肌にくっきりと輝いていた。
 まるで宝石のような無垢な瞳は、清らかで美しいものしか見たことがないような、穏やかに澄んだ眼差し――。

 天使は存在した。

 俺は本気でそう思った。

 これは決して言い過ぎではない。

 本当にどこからどうみても人間離れしていて、俺はあの時、遠慮することも忘れてじっと志緒ちゃんに見入ってしまっていた。

 
 聖と志緒ちゃん、二人の運命的な出会いに、あの運命の瞬間に立ち会ってしまったのは俺だけではなかった。

 きっと俺と同じように、村井さんもまた、あの場にいるだけで精一杯だったんだ。
 俺の無断外出なんて気にもならないくらいに。

 俺たちは二人とも、圧倒されていたんだ。
 あの時、あの瞬間、聖と志緒ちゃんの間に働いた“見えない力”に。
 瞬時に悟ってしまった“本物の縁”の存在感に。

 そしてそれは決して幻ではなく、妄想の範疇でもなく、紛れもない事実、現実なのだということを、俺たちは目の当たりにすることになるんだ。

 志緒ちゃんは背が小さくて、手足も細くて、年齢よりもずっと下に見える少女のような女性だった。
 その見た目だけでなく性格も、とっても可愛らしい人だった。
 コロコロと耳に心地よい声でよく笑う、チャーミングで愛らしい女の子だった。
 彼女がそこにいるだけで、花が咲いたように明るくなって、心がほっこり温まって、自然と幸せな気持ちが湧いてくる。
 彼女と過ごした時間は、何でもない日でもキラキラとした特別な日のように、うれしくて楽しくて、優しい気持ちに満たされた。
 そこがどこであれ――たとえ病院の1室であっても、それを忘れるくらいに彼女自身がいつも新鮮で、軽やかで、ポジティブな雰囲気を醸し出していて、いつでも、どこにいても、そこには華やかな輝きがあった。

 志緒ちゃんは俺たちよりも5歳くらいは年下だったかもしれない。
 けれどいわゆる彼女の同世代の女の子たちとは全く違っていた。
 年齢こそ僕らより下だったけれど、見た目のまだ幼さの残る無邪気な少女という印象は、早い段階で覆された。
 もちろん出会った頃に感じた神秘的な美しさは消えることはなかった。
 でも、志緒ちゃんの魅力はもっとずっと深いところにもあった。

 志緒ちゃんは、その小さな身体に、小さな手のひらに、細い肩に、聖女のようなたおやかさと、潔さ、芯の強さを兼ね備えた、一人の大人の女性だった。
 
 例えるなら、そう――真っ白い、小鳥のような逞しさ――。


“この子は、私の願い”

“この子は、私たちの希望”


 あの運命の出会いから数日後、二人はあっという間に夫婦になった。
 それはごくごく当然の成り行きだった。
 絹子さんは夜通し花嫁衣装のベールを編み、ドレスを作り、俺は仕事終わりに厨房でウェディングケーキの試作を作りまくった。新作の研究とかなんとか都合をつけてね。
 そして桜の森公園の奥の深森にある教会で、二人は式を挙げた。
 参列者は俺と絹子さんの二人だけ。
 よく晴れた吉日だった。
 公園の桜もまだ残っていて、風に散る花びらが幻想的だった。
 絹子さんの手作りのドレスは志緒ちゃんに本当によく似合っていた。

 
 翌年には央人が生まれた。

 央人がお腹にいると分かった時の志緒ちゃんは、うれしくてうれしくて、病室でずっと泣いていたって。
 感動で涙が止まらなくて、こんなにうれしいことがこの世にあるなんて思いもよらなかったって、歓びに満ちた笑顔で絹子さんに話していたそうだ。


“この子は、私の願い”

“この子は、私たちの希望”


 病室の前の廊下でその声を聞いた時、俺は志緒ちゃんの芯の強さを感じた。

「私にできることはなんでもする」
 彼女はそう言って絹子さんに縫いものから何からいろんなことを教わっていた。

 ある日志緒ちゃんが俺に連絡をしてきた。
 滅多にないことだったから、一番に志緒ちゃんの体の具合を心配した。
 ところが
「さぷらずにしたいの」
 電話口でそう恥ずかしそうに口にした志緒ちゃんが可愛すぎて、俺の最初の心配はまったくの取り越し苦労だったと分かった。

 思えば志緒ちゃんはサプライズの何たるかを知らなかったんだと思う。
 あの電話の時も、俺に何のサプライズなのか結局伝えないまま話が終わってしまった。
 とにかく手作りの料理を作りたいから教えて欲しいのだということだけは理解した。

 お腹の子供の話を俺にしてくれた時も、志緒ちゃんは前置きに「さぷらいずなの」と付けて「実は赤ちゃんが」とひっそり伝えてくれたんだ。
 俺はびっくりしたのとうれしかったのとで大喜びしたけれど、志緒ちゃんの「さぷらいず」がやっぱりおもしろすぎて新しい命の誕生を祝う気持ちに満足に浸りきれなかった。
 とはいえこの二人の子供なんて俺の子供のようなものだったから――勝手にそう思い込んでいた――俺だって聞いた瞬間から小躍りして居ても立っても居られなくて、既に待ち遠しくなっていた。


 あの頃志緒ちゃんは担当のドクターの許可が得られる時だけ、海辺のあのコテージへ行っていた。
 けれど料理は毎回聖がしていて、志緒ちゃんは生まれてこの方一度も包丁も握ったことがなかった。
 そんな子が、聖に初めての手料理を作りたいって俺に…志緒ちゃんの健気さにもおなかいっぱいだったし、志緒ちゃんに頼られて俺はすっかり舞い上がっていた。
 一方で志緒ちゃんは、聖が料理が得意なことをよく知っているだけに、あいつがびっくりするような美味しい物を作ってあげたいと張り切っていた。

 あの夜のことを、俺は今でもよく覚えている。

 一抹の不安を抱きつつ、俺はパエリアを提案した。
 志緒ちゃんはそれがどんな料理なのか知らなかったようだけど、「航平さんがおすすめならそれがいい」と快く受け入れてくれた。
 パエリアなんて手軽だし、簡単だし、失敗しないし、美味しいし、パーティーにもぴったりだ。
 俺がそう言ってあげると、志緒ちゃんはそれだけでもテンションが上がっていた。
 ヤル気満々に頬を高揚させていた志緒ちゃんは本当にこの世の物とは思えないほど神々しかった。

 当日、コテージの広いキッチンで準備を始めた。
 志緒ちゃんは俺がそろえた材料に大きな目をパチパチさせていた。
 並んだ魚介類はどれも初めて見るものばかりだったらしくて、けれどそれらを調理するという覚悟は早めにできた。
 志緒ちゃんはどう見てもぎこちない手つきで包丁を握り、リアルなオマール海老のグロさに目が点になりがらも、それでも俺に教わりながら懸命にその大きなエビをさばいていた。
 腕まくりをした細い腕がやけに逞しくて、小さな手指がそれはもう愛おしかった。
 聖を喜ばせるために健気に頑張ってる姿を眺めながら、俺もうれしくて心が温まるひとときだった。

 そして夜になって、仕事から帰って来た聖に、今夜は志緒ちゃんのお手製だぞ、って言ったら――

 あの聖がギョッとして一寸間にキッチンまで走って行った。
 あいつはリビングで待っていた志緒ちゃんの手を取って、両手指に異常がないか確認してた。
 それから俺の目の前に詰め寄って、見たことないような真剣な顔つきで、
“今度から航平が全部やって”
だって。
 俺は呆れて笑った。
 聖があんなに過保護だとは思わなかった。
 それがあまりにも意外だったのと、焦った聖がおもしろくて大爆笑だった。

“料理くらいいいだろう!”
“航平がやって”
“志緒ちゃん、おまえのために手料理作りたかったんだって”

“お祝いだからって”

 あの夜のパエリアは人生一、最高にウマかった。

 
 志緒ちゃんと出会って、聖は変わった。
 やっと“人間らしく”なったというか――それまでは、自分にも他人にも、自分を取り巻く環境そのものにも、まるで無関心だった男が――どれほど綺麗な女性に何人にもも言い寄られても、一切気にもかけず受け流すだけだったあいつが――志緒ちゃんだけは違っていた。
 聖にとって志緒ちゃんは、明らかに特別な女性だったんだ。
 聖にとって、志緒ちゃんこそが、まさに運命の人だった。
 志緒ちゃんは、本当の意味で聖に命を吹き込んでくれた。
 一人の人間としての人生を生きるということを、その道があるということを教え導いてくれた人だった。
 
 俺は二人のすぐ側で、あいつが変化していく様子を見守りながら、まるで奇跡の物語のような現実を、何一つ疑うことなく受け入れていた。

 二人が深く、強く、そして限りなく温かい愛情で結ばれていることを、俺は一番近くで感じていた。

 二人はただそこに寄り添って、同じ空間で同じ時間を過ごしている――それだけでこちらの胸がいっぱいになるくらい歓びに満ちていた。

 何をするでもなく、何を語り合うでもなく、心と心が呼応している―――そんな風に見えた。

 二人がそこにいるだけで、その様子を見ているだけで、自然と満たされて、俺の心まで癒されていた――。


“この子は、私の願い”

“この子は私たちの希望”

 あの日、春のそよ風のような声で、力強くそう言った。

 母である覚悟の声は、今もこの耳に残っている。


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