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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出④』

「忘れ物」


 ばばちゃんのお庭には植物がたくさん植わっていて、ほとんどがお料理やお薬に使えるものばかりだった。背の高い大株のラベンダーやローズマリー、喉に効くタイムやセージ、風邪の予防にはエキナセア。カレーのスパイスに使うフェンネルもあるし、バジルに大葉、カモミール、ミントの種類もいっぱいある。それに、お気に入りのアジサイと、毎年増える大好きなスミレ、それからそれから‥ばばちゃんのお庭をまるごとそっくりそのまま移植する時は本当に大変だった。亮介さんに言われて紙に配置を描き出したら、その種類の多さったらなかった。
 冴子さんも薬草が好きで、よくばばちゃんの庭に遊びに来ていた。ここから株分けしたラベンターを一束ずつ店先に吊るしておいて欲しいお客さんに分けてあげたり、ドライフラワーの花束に使ったり。ばばちゃんのお手伝いがてらエキナセアやローズマリーを両手いっぱいに摘んで、もらって帰ることもある。ばばちゃんが作っていたみつろうの軟膏はとてもよく効くって喜んでいた。お花屋さんは手が荒れやすいから、ばばちゃんの軟膏は必需品だ。

 玄関で冴子さんの声が聴こえると、霧島はいつも縁側からこっそり抜け出していた。

“マーヤも来いよ”
“えー、僕冴子さんに会いたいな”

 霧島はばばちゃんに「まだ帰ってないって」と言い捨て、冴子さんが家に上がるのを見計らって庭を駆け抜けた。

“冴子に会ったらめんどくせぇことになる”

 霧島がいないと僕が質問攻めにあうからおまえも来いって。

 霧島は冴子さんのことよく分かってるんだ。

 霧島が冴子さんに初めて会ったのは、中学に入学してすぐの、桜が散り始めた頃だった。といっても、霧島本人はその時のことを全く覚えていなかったから笑っちゃう。僕にしてみればやっぱりなのだけれど、冴子さんにしてみればそういうわけにはいかなかった。

 あの頃冴子さんはまだ深森の駅の近くにあったお花屋さんで働いていて、注文を受けた花束やアレンジメントなんかを近所に届けたりもしていた。
 その日、楓中に花束の配達に行った冴子さんは、校門をくぐったものの、目的の家庭科室がどこにあるのかわからず、立ち往生していた。職員室に聞きに行くのも気が引けたし、昇降口にはもちろん誰もいなかった。
「そりゃ授業中だわって一端外に出てみたの」
 すると、校庭の隅で桜の木の下に一人の少年を見つけた。

 霧島は冴子さんに“捕まった”。
 そして冴子さんの“圧”に押され、“家庭科室”まで直接案内する“ハメ”になった。
「この子ったらいっくら声をかけても全っ然気付かないのよ!」
「絶対に授業中のはずなのにあんなところに一人で突っ立ってるなんてろくな生徒じゃないと思った」
「でも唯一道案内してくれそうな人間だから仕方なくよ」
 冴子さんはその時のことをけっこう根に持っていて、何かにつけてこの話を持ち出すから、霧島はその度に面倒くさそうな顔をしていた。
「やっとこっちを向かせて家庭科室はどこかって聞いたら校舎を指すだけでしょう、不親切だったらありゃしない。案内してって頼んだのにこっちの顔じぃーーーっと見て無表情のままだんまりよ。こっちも配達の約束の時間があったから焦るじゃない。なんとか説得してやっと校舎の中まで連れて行ってもらったのはいいけれど、案の定ろくな生徒じゃなかったわ。」
「この子、途中で生活指導の先生に捕まって、強制連行されてったのよ」
 僕はその時の様子があまりにも目に浮かびすぎて大笑いした。

 けれど、霧島はその時のことを全く覚えていなかった。
 僕は中3の夏にアネモネの開店のお手伝いをしたとき、亮介さんの奥さんとして初めて冴子さんに会ったわけだけど、二度目だったはずの霧島は冴子さんにあいさつするどころかむしろ普通に警戒しまくっていた。
 霧島は初めて会う人が苦手だ。苦手だからこそ、その人のことをじっと見る癖がある。
 冴子さんはすぐに霧島に気が付いて、あの時はどうもありがとうって笑顔で迎えてくれた。なのにあいつときたらいつも通り冴子さんの顔をじっと見たまま、無言で固まっていた。あいつにしてみれば初対面のはずの冴子さんにあの時はなんて言われたものだから、相当驚いたんだと思う。つまりドン引きしていたんだ。

 もともと霧島は人の顔も名前も積極的に覚える方ではなくて、なのに相手は自分のことを知ってるっていうことがけっこうな頻度で起こる。冴子さんの時も、だからあまり珍しいことではなかった。
 霧島にしてみればよくあるような出来事も、あの日の再会は冴子さんにとってかなり衝撃的だったみたいで、自分を覚えていないと分かった途端、冴子さんは散々信じられないとかひどいとか人でなしとか言い捨ててから、「あんたどんだけ他人に興味ないわけ」と最後は呆れ顔だった。

 霧島はなにせ目が悪いんだ。自分のすぐ目の前にいる人でさえよぉく見ないと誰だか分からないくらいだから。でもメガネもコンタクトもしてなくて、日頃から見ようっていう意識もあまりない。よく見えないから顔も覚えられないし、間違えたら申し訳ないから名前も覚えないのかもしれないと僕は思ってる。
 霧島はもちろん黒板の字もほとんど見えない。だからノートもとらないし、むしろ授業中は居眠りしてるし、そもそも教室にもあまりいないし。ほんと、霧島っておもしろいんだ。

「放浪癖」と最初に言い出したのは亮介さんだった。
 霧島はある日突然、何の前触れもなくいなくなる。
「小学校に上がる前のガキの頃からあいつはしょっちゅう姿をくらませてたって。」
 ばばちゃんにしてみればほとんど日常茶飯事だったんだろうって亮介さんは話していた。

“お腹がすいたら帰ってくるから”

 僕は霧島がそろそろいなくなるな、という時はなんとなく分かる。冷蔵庫の中のリンゴジュースがなくなっていたら、しばらくは帰って来ないと思ったらいい。

 あの日の出来事を、亮介さんは“事件並みの事故”と言っていた。
“冴子、霧島にマジ切れ事件”なんて題名までつけてたっけ。

 夏休み中のアネモネのお手伝いが終わっても、僕らはよく亮介さんと遊んでもらった。
 その“事件”が起きたのは、夏が終わって、すっかり秋の風が吹く頃だった。夕方ばばちゃんの家に亮介さんがやって来て、冴子さんも一緒だった。
僕は縁側でばばちゃんのプリンを食べながら、鈴虫の声が心地よい庭をばばちゃんと二人で眺めていた。亮介さんが「霧島は?」と僕に聞いて、僕は「知らない」と答えた。
 霧島には3~4日くらい会ってなかった。
 亮介さんと冴子さんはすごく驚いていた。
「え、ヤバくね?なんでこんな落ち着いてられんの?」
 亮介さんの隣で冴子さんは声も出ない様子だった。

 夕焼けが青紫色に変わっていて、細い三日月が遠くに小さく光っていた。

 その時のことを、亮介さんは「いや、だから笑えないんだって」と話していた。霧島が帰って来ないばばちゃんの家で、冴子さんは“帰ったらタダじゃおかない”と意気込んでいた。

「あん時はマジで“タダ”じゃ済まなかったんだから」

 霧島がいなくなることは珍しいことじゃなかった。でも冴子さんにしてみれば、それを当然のことのように受け入れる僕を「あり得ない思考」と呆れ、「全く同意する余地はない」ってことだった。

“あの子にはね、あの子なりの理由があるから”
“いろんなことを、考えているのよ”
 ばばちゃんもまた、行き先も告げず何の前触れもなくいなくなった霧島を心配する様子もなく、“お腹が空けば帰って来るから”となだめるような笑みを浮かべた。 けれど冴子さんはそんなばばちゃんにも苛立っている様子だった。

 亮介さんたちが居間の座卓を囲んで“協議”をしているとき、霧島が帰って来た。僕は「お帰り!」と立ち上がり、冴子さんは縁側へ飛び出した。

“一体どこで何をしていたの?!”

 頭から霧島を怒鳴りつけた冴子さんの声は怒りに震えていた。
“何を考えているの?!”
“なぜいつも勝手にいなくなるの?!”
“学校を無断で休むなんて!!”
“絹子さんにどれだけ心配かけてると思ってるのよ!!”

 冴子さんの怒りの声はさらに威力を増していった。

“こんなことしていいと思てるの?!”
“何も言わずにいなくなるなんてどういうつもり?!”

 霧島は反論も言い訳もしなかった。ただ冴子さんから目を逸らし、けれどそこから立ち去ることもしなかった。

「冴子はその霧島の態度に余計腹が立ったんだ。」
 あとで亮介さんはそう説明した。

“黙ってないでなんとか言いなさい!!”
“言いたいことがあるなら言いなさいよ!!”

 そして冴子さんの声色が変わった。

“勝手にひとりぼっちだと思うのはやめなさい”

“喉の奥で唸るような”冴子の太い、低い声。

「俺あいつのあんなドスのきいた声聞いたことなかったよ…。」
 亮介さんでさえ“震えた”その“怒りが凝縮されたような”一言に、周りの空気が“一気に凍り付いた”。
“自分勝手な子供よあんたは”
 それはさっきまでの怒鳴り散らしていた声とは全く別の、冷えた、押し殺したような怒りだった。
“あんたが突然いなくなって、私たちが心配しないとでも思ってるの?”
“何の連絡もなく何日も帰らなかったら、私たちがどれだけ心配するか考えたことある?”
“どうせ周りのことなんか何も考えていないんでしょ?”
“自分のことしか考えてないから平気でこんなことができるのよ”

「あの時霧島の目の前に立ちはだかる冴子の背中には、でっかく‘正義’の文字が書いてあった」

“一人立ちしたいなら、心配されているという自覚をもちなさい”
“自立したいなら周りを頼ることを覚えなさい”
“今のあんたは周りに迷惑をかけることしかできない、自己中なだけの臆病者よ”

「確か冴子はまだ霧島と2~3回顔合わせた程度だった。そんなほとんど何も知らない子供相手にあいつ、ガチ説教だったよな」
「霧島は冴子の言ってることあんま分かってねぇんじゃねぇかなーって思いながらも、俺はなんも口出しできなかった」

 冴子は霧島を許せなかった。そう亮介さんは言っていた。

“思春期だからって何してもいいってわけじゃないのよ”
“甘えるのもいい加減にしなさい”
“自分に何かあったら悲しむ人がいるってことをよく考えなさい”
“あんたのその身体はあんただけのものじゃないのよ”

 冴子さんは「中学生の子供じみた振る舞いを全く理解できない」し、それを「ただ笑って見過ごしているばばちゃんにもイライラする」し、霧島の「身勝手さ」に、「周りに迷惑を掛けることしかできない」「心配されている自覚がない」ことにも腹を立てずにいられなかった。

“あんたのことを言ってるのよ?!”

 霧島の平然とした態度に、冴子さんの怒りは止まらなかった。

“第三者ぶるのはやめなさい!”

 激しい怒りとともに大粒の涙をこぼしながら、厳しい言葉で霧島を責め、湧き上がる感情を全て霧島にぶつけた。

 そして、きっとまだまだ言いたいことがありそうな冴子さんに、僕は声を掛けた。
その時のことを亮介さんはこんな風に言った。

「あの時の夏目はさながら菩薩のようだった」
 亮介さんは僕が冴子さんの“圧”に蓋をしたのだという。

「冴子さん」
「聞いて、冴子さん」
 振り向いた冴子さんの顔は涙でぐしゃぐしゃに濡れていた。

「あのね、僕はこう思ってるんだけどね」

 冴子さんは僕を怪訝そうに睨んでいたけれど、話を聞いてくれた。

「忘れ物みたいなものなんだよ」

「だから大丈夫だよ」

「冴子さんも霧島のことが大好きなんだね」

 亮介さんは、ただただ呆気に取られていたけれど、こんな風に思ったって。

「焼け石に水って言うけどさ、あの時はその水の量がハンパなかったんだ」
「まさに瞬間鎮火。燃える油に巨大な濡れ布団かぶせたみたいな感じ」
「ああいう時、人ってああいう表情(カオ)するんだなぁってなんか妙に冷静な目で眺めてたのを覚えてるよ」

“振りかぶっていた冴子の怒り”は突然の“断絶”に遭い“行き場を無くした”。

 その行き場を無くした怒りが、今度は「違う方向」から霧島を攻撃し始めた。

「あいつは即行形成立をて直して、渾身の一撃をくらわしたんだ」

“もし夏目君があんたに何も言わずにいなくなったらどう?!”
“そして、何日も何日も帰って来なかったら、連絡のひとつもなくどこで何をしているか一切分からなくなってしまったらどうする?!”
“どんな気持ちになる?!”

「冴子にしてみればそう言ってやることで少しでも霧島にこっちの身にもなってみろってことだったと思うんだ」
 亮介さんは冴子さんの気持ちを代弁するようにその時のことを説明した。
「一度相手の立場になって、今回のことを考えて欲しいってさ。でも―――それがまさか、あんな展開になるとはね…。」

 冴子さんの作戦は、
「霧島にしてみれば“こっちの身にもなってみろ”どころの例えではなかったんだな」
「なんかムダにすげぇリアルに想像しちまったみてぇでさ」

 霧島の顔が青ざめるのを、そこにいたみんなが見ていた。
 僕はいいようのない不安が全身を駆け巡った。

「たかが例え話でそんなんなっちまうなんて誰も思わないじゃん?そもそも冴子だってそんなつもりなかったわけだから。」
 亮介さんは言い訳のようにそう言った。

「大丈夫だよ」
 僕は縁側から庭に降りて、霧島の隣に立った。

「僕がどこかに出掛ける時は、何日も前に霧島に言うと思うよ」
「もし僕が出掛けるその日に会えなかったとしても、置手紙をしていくだろうし」
「僕は霧島に黙っていなくなったりしないよ」


「あの豹変ぶりはもう意外過ぎて、冴子はもちろん俺だって逆に拍子抜けしたもんな」
 冴子さんは霧島が反論してくると思っていた。
「夏目はそんなことしねぇよ!とかさ、だとしても俺はなんとも思わねぇよ!とか、なんとかさ」

 
 亮介さんも冴子さんも霧島のことを心配していたけれど、僕はちっともそんな気持ちにはならない。
 いつも僕は霧島を待ってる。帰って来るに決まってるもの。
 僕はね、いつだって一番最初に霧島にお帰りを言いたい。
 それだけなんだ。

 亮介さんも冴子さんも、霧島のことが大好きなんだ。
 僕はそれがとてもうれしい。


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