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長編小説「きみがくれた」中‐⑩
「葛藤」
「それにしても――」
マスターは口に運んだマグカップの手を止めた。
「僕が前から感じていたことだけどね‥冴子ちゃんはその――なんていうか、特に央人に対しては――‥とても敏感だよね」
マスターはコーヒーを一口含むと、感慨深げに息をついた。
「ですね、あれはもう一種の病気みたいなもんだから‥冴子は昔からそうなんだよな‥どういうわけか」
亮介は冴子が霧島に“執着している”理由を敢えて尋ねたこともない。
「あいつはなぜか霧島にだけ人一倍厳しくて、誰よりも心配してて、異常なまでに大切にしてる‥冴子の霧島に対する愛情は、“超激情型”とでも言うかな…ただし、完全な一方通行の、だけどね」
「超、激情型」
「愛情っていうのは間違ってないと思うよ‥けどそれを若干こじらせてるっていうか」
亮介はそう言ってマグカップに手を伸ばした。
俺が思うに、冴子は正直霧島の取り扱い方が分からないんだよ。
つかそもそもあいつは取り扱おうとも思ってないんだろうけど‥
霧島の気持ちとかタイミングとか、相手の都合は完全無視で、100%冴子の「今表現したい」こと、「今伝えたいこと」が勢いだけでダイレクト・アタック!て感じだもんな。
身ぃひとつで、文字通りの体当たり。
当たっても一ミリも砕けない精神でさ――‥そんなあいつの愛情表現は、
「例えるなら、‥わんこそば、だな」
亮介は小皿のチョコレートを手に取り、
「冴子はフードファイターならぬ、霧島ハンター」と言った。
「‥ハンター?央人が狩られてるんだ?」
「冴子がそばを入れる人で霧島がそばを食う人」
「冴子の愛情の注ぎ方は、わんこそばのそば並みに一方的ってこと」
亮介の言葉にマスターは苦笑して、
「わんこそばねぇ」
と感心した。
「ただのわんこそばじゃなくて、スーパーバトルシップわんこね」
「もはや格闘技、まだお椀に側が入ってるなんて関係なしに、有無を言わさず次のそばがバンバン投げ込まれてくるの」
「一回の量もお椀に山盛りが当たり前」
「腹がいっぱいだろうが蓋を閉じていようがいまいが、そんなことはお構いなしにひたすらそばをぶち込まれる」
「むしろ蓋なんかとっくに引ったくられて、どっか遠くにぶん投げられて、阻止するアイテムもなし」
「飛んでくるそばも、もはやお椀目掛けてなのかダイレクトに口を狙われてるのか分からない‥とにかく食うべし食うべし、って一方的過ぎてもうバトルにもならないっつうか、防御はおろか反撃なんかする隙もなければ考えることすら許されない、ただただ無防備でタコ殴りにされるだけっていう‥もちろん棄権する権利も一切なし」
亮介はまるで“実況中継のように”そう話しながら、ふと思い出したようにこう言った。
「そもそもお椀の蓋なんかはじめからなかったのかもしれないな」
コーヒーを一口飲んで、亮介は
「そのお椀だって無理やり持たされたようなもんだしな‥」
とつぶやいた。
“完全防御”をしているように見えて“実は無防力ゼロ”な霧島と、“防御アイテムの有無”にも“その存在すら構わない”冴子の“自分ルール”。
「あの二人の関係性って、めちゃくちゃ危ういんだよな‥愛があるからこそ成立してる」
むしろ、“だからこそ愛を感じられる”――
マスターは亮介の“独自理論”を聞きながら、
「それは激しいね」と一言応えた。
このバトルわんこはさ、もちろんそばの味だの質だの硬さだのに浸る間もなく、噛む暇もなく、全部丸のみだからね。
しかも強制的に。
腹ん中流し込んでも流し込んでも容赦なく次のそばがぶち込まれるいわばシステムだから。
それでも始めのうちは霧島も、テーブルの上に置いた小さいお椀をじっと見つめながら、目の前で山盛りになっていくそばに唖然としながらも、ほんの少しずつではあるけれど、味見程度には口に入れてみたり、やっぱり入れなかったりしていた時期もあったんじゃないかな。
だけど、瞬きする間もないくらいどどどっとてんこ盛りになっていくそばに、お椀からとっくに溢れてテーブルの上にまでモリモリになっていくサマに、早々に手に負えなくなってさ。
うんざりするよりも諦めの方が早かったような‥もう蓋をする気も起きなくなったっていうか、蓋のありかを探すこともやめたっていうか――
いちおそこに着席はしているものの、早々に箸までそばに埋もれちまって、むしろお椀もそばで見えなくなっちまってさ、そんなんもうどうしようもないじゃん?
それで今となってはあれだ、椅子も放り出して、テーブルの上にどっさり盛られたそばごとバーンって蹴り上げて、部屋のドア破壊してあっさり出て行っちまった、て感じかな。
とりあえず少しの間はその部屋にいた、そばの味もなんとなく知ってる、でももうムリ、みたいな。
去り際はそこ、霧島らしくあっさりしたもんだよ。
残された冴子は成す術もなく、あとは一方通行をひたすら激走するのみ。
「試合は、そこで終了?」
「いやまさか!バトルわんこに終わりはない」
亮介は呆れたような口調で断言した。
なにせバトルは常に冴子がルールだからね。
続行と言えば力づくで続行される。
ここでも棄権はあり得ない。
さっさと部屋に連れ戻されて、散乱したそばを片付けさせられ、テーブルを起して着席。
何度部屋を出て行こうが、テーブルを壊そうが、お椀を投げようが、首根っこ掴まれて引っ張り込まれて、有無を言わさず、“ファイッ!”だよ。
「俺からしたら、霧島愛されてんなぁ・・てことなんだけど、霧島にしてみれば迷惑以外の何ものでもないだろうな」
「冴子ちゃんの愛は、すさまじいね」
「だから、今の霧島の状態を知ったら冴子がどうなるか‥もちろん霧島の体も心配だけど、冴子の精神的な部分がさ――」
亮介はコーヒーを口へ運び、深い溜息を吐き出した。
「こんな時、夏目ならきっとうまくやるんだろうな――‥‥」
冴子の過剰な剣幕でさえ、マーヤがたった一言で納めてくれた。
“大丈夫だよ”
「マスター俺、考えちゃったことがあって――」
そう切り出した亮介は、静かにマグカップを下ろした。
「俺、霧島には早く目ぇ覚まして欲しいんです。元通り、元気になって欲しい、もちろんそう思ってる。けど――俺、考えちまっったんだ――‥あいつにとって、何が一番いいのかなって‥」
もしかしたらこのまま眠らせておいてやった方がいいんじゃないか‥夏目のことを知らないまま、あいつは何も真実なんて知らなくていいんじゃないかって――‥‥。
「亮介君‥」
「だってさ、あいつ、目が覚めたらさ――‥この現実を受け入れなきゃならないんだぜ?そんなの‥これからどうやって――‥‥夏目がいない世界で、あいつはこの先どうやって生きていくんだろうと思ったらさ――俺たまんなくって――」
亮介は頭を抱えるように顔を伏せた。
「霧島にとって夏目は自分の片割れみたいなもんだ、夏目がいなくなっちまったってことは、自分の体半分持ってかれちまったようなもんでしょ?」
「子供ん時からずっと一緒で、あいつには夏目しかいないのに――‥体半分どころか心ごと全部って感覚かもしれない‥‥それなのに、こっから先どうやって――」
「あいつさ、目が覚めたってこれからどうやって生きていったらいいのか――‥‥分かんねぇんじゃねぇかなぁ――‥‥」
亮介の苦しい涙声が、静かな店内に哀しく零れた。
“俺はマーヤと離れたくない”
あの日、霧島はそう言っていた。
「それは‥確かにそうだね」
マスターは静かに頷いた。
“耐え難い現実からの逃避”
安西先生はそう話していた。
“身体はどこも悪くない”霧島が目を覚まさない理由――。
“央人はここへ戻ってきたくないんじゃろう”
「こんなこと考えるのはよくないって分かってるんだけどさ‥これから一生背負っていく辛い想いを受け入れられないでいる――そのせいで何日も目を覚まさない事実がある――それならいっそ、こんなウソみたいな現実、無理に受け入れさせなくてもいいんじゃないかな――」
それじゃだめかな―――‥‥。
亮介は自分でも間違ったことを言っているのは分かっている、と繰り返し声を震わせた。
「あーあ‥‥夏目がいてくれたらなぁ―――‥‥‥」
マスターは言葉もなく、ただ両手で顔を覆う亮介の肩に手を載せた。
長い長い沈黙の中、亮介のすすり泣く声だけが響いていた。
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