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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出⑫』

「ほとりちゃん」


 なんでだろうね、冴子さんにしても貴博にしても、霧島と関わった人ってその出来事を“大事件”にしちゃうんだ。
 霧島本人はまったくそんな意識ないから、そこがまたおもしろいところなんだけど‥。

 ほとりちゃんも霧島に“忘れられていた”うちの一人だった。
 あれはほとりちゃんにとっては”大大大…事件”だった。

“夏目先輩にはわからないんです”
“これがどれだけ大大大大大‥‥事件か‥‥!!”
ってちょっと怒ってたけど、うん、僕にも分かるよ。
 あの時の事を、僕に一生懸命話してくれたもんね。

 ほとりちゃんは僕らの2個下で、僕と同じ環境委員だった。植物や動物が好きで、部活は“茶道部”。入部の動機は、茶花と和菓子で、背が小さくて小動物みたいな大きな黒目が特徴的だった。ほとりちゃんってかわいい名前だよね、って僕は最初に声を掛けたんだ。

 僕はあの日の話を聞くまで、ほとりちゃんが霧島のことをあんな風に想ってることを知らなかった。もっと早く言ってくれていたら、もっと早く仲良くなれたのに。

 ほとりちゃんが霧島と初めて“関わった”日、ほとりちゃんは放課後茶器室に部活で使う道具を取りに行ったんだって。ドアを開けて中に入って、いくつかある棚のうち、入口近い棚の扉を開けて道具を探していたら、窓際の棚の陰に人の足が見えた。誰もいないはずの部屋に誰かいる!って、その時点でかなりびっくりしたんだけど、恐る恐る窓際まで入って行って、棚の向こう側を覗いてみたら、霧島が壁に寄りかかって床に足投げ出して寝てたんだって。
 あいつはほんとどこでも寝ちゃうんだよね。
 ほとりちゃんは“ものすっっっっ‥‥ごく”驚いて、“おもわずギャーーっって”叫んだんだって。

“だって仕方ないじゃないですか!!”
“そこにっっっ…!すぐそこにっっ…あのっ…あの霧島センパイがいたんですよ?!”
“すぐそこにですよっ・・?!そこっ‥そこにっっっ!!!”

 えーと、なんだったっけな‥ほとりちゃんは霧島のことをいろんな呼び方で説明してたっけ。
“あの3年連続Mr.藤桜の”、“奇跡としか思えない”“上から下までもはや2次元”の霧島先輩が―――とか、
“学校ではほとんどお見掛けすることが不可能な”、“激レアすぎる”“ほぼ空想上の”“会えたら一生分の運を使い果たすと言われている”とも言ってたかな。
 ほんと、ほとりちゃんておもしろいんだ。
 あとは――“生まれながらのMr.藤桜”、“学校にいるかいないかわからないのに1年生の頃からダントツ1位”、“驚異的イケメン”で“超一流容姿端麗才色兼備”‥
“ミナト・マツナガ写真館人気最上位殿堂入り”の霧島先輩が――って‥
 まだまだいろんなこと言ってたけど、覚えきれない!
 てゆうか、ミナト・マツナガ写真館て!学校で行事がある度に職員室前の壁に貼り出してくれるマツミナの写真にそんな名前がついてたとはね!
 僕はそのネーミングを聞いた時が一番おもしろかった。

 放課後の茶器室で、ほとりちゃんは突然の霧島の“降臨”に“とにかくど(・)ビックリ”して“テンションマックス”で、“心臓が喉を突き破って”“足が自分のものじゃないみたいに勝手にガガガガ震えて”“生きた心地がしなかった”らしい。
 ほとりちゃんが言うには、霧島はユニコーンとか妖精とかと同じような存在なんだって。“逆に”存在しない存在なんだって真剣に言うんだもの、ほんと、ほとりちゃんておもしろいよね!
 1年生のほとりちゃんにしてみれば霧島との関りはそれほどの衝撃があったみたいなんだけど、僕にしてみればその話の方が現実味がなかった。
“雲の上的、むしろ神”らしい霧島を突如目の前にしたほとりちゃんは、“喜びよりも驚き、感動よりも恐怖、トキメキよりも吐き気を覚えた”って、息を荒げていた。
 
 そんな存在である霧島に対して、“なんとか突き抜ける興奮を抑え込み”、“思考が前に進むようになった今”、
“あんな幸運もう二度とないのに!”という“ナイアガラの滝レベルの後悔に陥った”んだって。
 あの時のほとりちゃんは、なんだかある意味ゾーンに入っちゃってるように見えた。
 それで僕は、「ほとりちゃん風に言うなら、“霧島ハイ”みたいなものなのかな」って聞いてみたんだ。そしたら
「ハイどころじゃありません!!昇天です!!」
って力強い答えが返ってきた。

「考えてみれば、棚の陰に見えた足先ですら神々しかったのです」
 少しだけ冷静さを取り戻したほとりちゃんは、今度は物語でも読むように語り始めた。
「まるで竹取物語の翁が光る竹に吸い寄せられるように、私もそのオーラ全開の上履きに目を奪われ、引き寄せられていったのです…」
「考えてみたら、もっとじっくりお顔を拝見しておけばよかったのです!」
「だって!あんなビックチャンス二度とありません!私ときたらなんと愚か者なのでしょう!!」
 ほとりちゃんはせっかくの“一世一代のチャンス”を逃し、けれどあの時は“ミッション”を“遂行”するべく、驚いてばかりもいられなかった。

「ええ、そうです、私には茶器室からお茶道具を持ち出さなければならないという重大なミッションがあったのです」

 ほとりちゃんはずっと心臓のドキドキが止まらなくて、喉から塊が突き破って出て来るのを必死で抑えながら、吐き気で体を震わせながら、膝が半歩先にあるみたいな体が宙に浮いてるみたいで自分のものじゃないような感覚で、それでもなんとか霧島を起こさないように、静かに移動して目的の棚まで辿り着いたんだって。
 
 この表現力とその場面の再現力。ほとりちゃんは演劇部でも活躍できたと思う。

“しかし!ここで私は最大の難関にぶち当たりました!”
 まるでミュージカルのワンシーンみたいに、ほとりちゃんは人差し指を天井に向かって突き上げた。
 今日必要なお茶碗が“よりによって”棚の上の方にあったんだって。
 ほとりちゃんは小さいからね、絶対届かない!ってなって、それで脚立だ!と思ったんだけど音立てちゃマズイ!って思って、次はイスだ!ってなって、でもガタガタさせちゃったらいけないし、って思って、もういい、ここは自力でなんとかしようと心に決めて、腕を伸ばして、がんばってがんばって背伸びして、指をぎゅうーって伸ばして、“届けぇ~~!!”って踏ん張ってたら‥

“突然神の手が現れたんです!!”

“その手は私の指の先にある木箱を軽々取って‥‥!!!”

 僕はもう我慢できずに吹き出しちゃった。
 だってあのほとりちゃんの驚いた表情(ひょうじょう)!!
 真ん丸の目を大きく見開いて、鼻の穴まで膨らませて、口を前にすぼめてさ‥!

“ななななななんとっっっ!!すぐそこに、まさにここに!あの霧島センパイが…!!”
“ここですよ?!ここ!!ほんとすぐここにセンパイの胴体があったんですよ!!!”
 おもしろかったなー!“胴体”って!
 そうだよね、霧島と並んで立ったら、ちょうどほとりちゃんの顔が霧島の肩か胸の辺りになるもんね。

 ほとりちゃんは差し出された木箱も受け取れず、“ぎゃっっっ!!!”って大声あげちゃったんだって!

“同時に心臓が胸を突き破ってドンって外に飛び出して、目の前の棚に衝突して、ワンバンして床にゴロゴロゴロゴローーーって転がって”
だって!
“それを追いかけることもままならなくて、とにかく人生最大のバグ、脳みそがヒートアップして、体中が大パニックでした!!”

 そのパニックついでに、ほとりちゃんは霧島が取ってくれた木箱をひったくるように奪って、”史上最速の猛スピードで”茶器室から飛び出したんだって!!
 あーおもしろい!僕もうお腹が痛くて笑いすぎて苦しかった。
 ほとりちゃんてほんとにおもしろいよ!

“だってだって仕方ないじゃないですか!”
 ってほとりちゃんは何度も訴えた。

“二度見する余裕もなくて・・!”
“あの、リアル感皆無なバーチャル世界の住人であらさられる霧島センパイが私のすぐここにいたんですよ!”
“あんなに至近距離で・・・っってゆーかむしろひっついていたかもかもかも・・・!”
 身振り手振りでその時の気持ちを表現するほとりちゃんが、僕はなんだか微笑ましくもあった。

「‥それにしても、私は一瞬だけ、ほんの0.1秒もなかったかもしれませんが、ほんの一瞬だけ、間近で見ました」

そう急に冷静な表情に戻ったほとりちゃんは、今度は小さく溜息をついた。

「あの異次元級、超美形の人であって、まるで人でない幻の美しさ…・・!!」

 それでしばらくうっとりと目を閉じてたっけ。

「前髪に隠れていても尚、溢れ出す輝き‥」
「国宝級、秘宝級の美しさをひけらかさない奥ゆかしさ‥」
「気配を消しても、無言でも、些細な所作ひとつで無限の幸福へと誘うパンチ力‥」

 そしてほどなく、ほとりちゃんは“現実”を“噛みしめ始めた”。

“全校生徒の神的存在である霧島センパイに、茶器を取って頂くという信じ難い幸運過ぎる現実が、この私の目の前で、確かに起きたのでございます”

“年に何回そのお姿を拝めるか知らない霧島センパイの、超超超貴重な優しさに触れるという、超絶至福のひと時を体験させて頂くという、超超超貴重な経験・・!!”

「夏目先輩、霧島センパイはバーチャルじゃなかったです」

 だって!あれ本気なんだから、おもしろすぎるよね!

 とにかくほとりちゃんは何を言ってるかわかんないくらい感動していた。  

 よっぽどうれしかったんだねぇ・・思い出せば出すほどうれしさが込み上げてくるっていうか、もう全身の内側から幸せな気持ちが湧き上がってくるような、そんな感じだった。

 そしてほとりちゃんは、
“油断すると吹っ飛びそうな記憶を必死でつなぎ止めようと”しながら、さらに“はっと”して“うぉーーーーーっっっっ!!!”ってなったと言った。

 ほとりちゃんの話し方がおもしろすぎて、僕は何があったのか尋ねることもできずに半分笑いながら聞いてたんだけど‥

 ほとりちゃんによれば、よくよく記憶を辿ってみたら、霧島が耳元で何か言ってたらしいんだ。それをしばらくしてから思い出したらしくてね。それでまた一人で顔真っ赤にさせてさ、

“夏目先輩!夏目先輩!!”
“私思い出しちゃいました!思い出しちゃいましたっっ!!!”
って、僕のとこに駆けてきて、

 木箱を取ってくれた時、霧島が「これ」って言ったんだって。
 たった一言。
 そのことを思い出したらいてもたってもいられなくなって、これから外周10週くらいできそうですっっ!だって。ほとりちゃん、その記憶に微かに残る霧島の「これ」を思い出して、授業中にも思わず“ぐぇ”って変な声出しちゃったんだって!そしたら地理のチェックに“だーれですかぁカエルを踏んずけたよぉぅな声を出すのはぁ”って言われちゃったって‥!
 もうほとりちゃんはおもしろすぎるよ!

“あの霧島センパイの声がっっっ・・・!!”
“すぐここでっっ!こんっなに近くで!!”
口をパクパクさせながらほとりちゃんはとても興奮していた。

“私、一生の不覚です!”
“先輩!どうしましょう!こんなこと私の人生で絶対にないと思ってたのに!!”
“あの霧島センパイに話し掛けられることなんてあり得ないことなのに・・!!”

 うれし過ぎて幸せの絶頂に浸っていたほとりちゃんは、けれどすぐに
“とてつもなく激しいやっちまった感”のどん底に“マッハで突き落とされた”と言う。

 せっかく茶器を取ってもらって、なのにお礼も言えず、それどころか霧島の顔見て大声上げた上に、その箱をひったくって“逃亡”しちゃったって、思い出せば出すほど罪悪感が押し寄せてきて、いてもたってもいられないって‥言ってた。すごく失礼なことを“しでかしてしまった”から、できれば本人に直接会って、ちゃんと謝りたいって。
 ほとりちゃんて、ほんとに真面目でいい子なんだ。霧島のこととなるとちょっと舞い上がって収集がつかなくなることもあるけどね!
 結局のところ、ほとりちゃんにとってすごくうれしくて幸せだった時間が、自分のせいで台無しになっちゃったって落ち込んじゃったんだ。

 でもね、僕はほとりちゃんの罪悪感をたいして重くは捉えなかった。
 だってあいつのことだから、きっと何も気にしてないし、もしかしたら覚えてすらいないかもって思ったから。
 僕はそう正直に話したけれど、ほとりちゃんの落ち込み具合は日に日に増していってしまった。委員会で顔を合わせる度にほとりちゃんの話を聞いて、その度に僕は「気にしなくて大丈夫だよ」って言ったんだけど、見てるこっちが辛くなるくらいほとりちゃんの後悔は深刻だった。

 あの“大大大大大‥‥事件”があった日から10日くらい経っても、ほとりちゃんは深い自己嫌悪に陥ったままだった。
 
 なんで霧島と関わると「大事件」になっちゃうんだろうな。みんな気にしなきゃいいのにね。
 実際、ほとりちゃんに茶器室での一件を聞いた後、霧島本人は何も言ってなかった。

 気の毒なほとりちゃんは自分を責めることを止められないみたいだった。
“センパイの顔を見るなり自分でも聞いたことないくらい酷い叫び声をあげて”
“優しさを仇で返すような暴挙を”
“人生最大の失態です”
“私ほんとうに最低です”
“私の鍛錬がたりないばっかりに驚いて舞い上がって興奮が抑えきれずにテンパり過ぎて”
“お礼も言わずに走り去るなんて人として終わってます!”
“自分で自分が嫌になります…!!”

 ほとりちゃんはすっかり追い込まれていて、だから僕はいっそのこと霧島に会わせてあげたかった。
「そんなに辛いなら、霧島に会う?」
「いつでも会えるよ」
 けれどそれはそれで、ほとりちゃんはすぐにうんとは言わなかった。
 なにせほとりちゃんにしてみれば霧島は“架空の人物”っていうくらい“雲の上の人”だったからね。

 僕と話すうちに、一度は
「私の最低最悪な無礼を謝りたいです」
って言ったと思ったら、今度は
「でもこれこそおこがましいことかもしれません…!」
って思い直したり、
「こんな失礼極まりない私が霧島センパイの前に再び現れることなど許されません!!」
とか、
「普通に考えて霧島センパイのプライベートにしゃしゃり出るなんて身の程知らずにも程があります!」
とかなんとか‥とにかく一筋縄ではいかない感じだったんだ。

 ほとりちゃんはこんな風に霧島のことで落ち込んだり喜んだり、テンション上がったり酷くふさぎ込んだりしてたけど、僕はね、ほとりちゃんが霧島のことをそんなに大好きで、大切に想ってるっていうことが分かって、それがとってもうれしかったんだ。

 
                    ◆
 
 
 ほとりちゃんにとっては、きっと一大決心だったはずだよ。
 僕はなんとかほとりちゃんを説得して、会って話せば大したことなかったって思えるからって、ほとりちゃんをマスターのお店に連れて行ったんだ。
 
 でも僕、その日が木曜日だってことをすっかり忘れていたんだよね。
 
 ドアベルの音とともに勢いよく冴子さんが登場したとき、もしかしたら霧島は来ないかもしれないと思た。
 
 冴子さんは僕とほとりちゃんを見るなり満面の笑顔になった。
“あら?!”
“あらあら?!まーーあ!珍しいこと!!”
“かわいらしいお嬢さんがいるわあ!!”
 冴子さんは抱えていた紙の包みをソファ席のテーブルに下ろしてから、僕らの方へ向かって歩いてきた。
“なあに、夏目くん!そっかあ!ああ、そう?!”
“いつの間にィ?もぉーう、紹介してよぉ!”
 冴子さんは後ろから僕らの顔を交互に覗き込み、最後は僕の背中を一発叩いた。
“っ痛!ちょ、なに冴子さん!”
 僕は冴子さんの顔がおもしろくてあははと笑った。
“あははじゃないわよごまかさないで、いつの間に彼女なんかつくって!”
“え?”
“そうよねぇ、もう高校3年生だものねえ、いえ遅いくらいだわよねえ!よかったわぁ!”
“あんたたち四六時中一緒にいるんだもの、彼女なんてできる隙もなかったでしょう”
“なぁに、ここに連れて来るってことは正式に発表ってこと?央人はもう知ってるの?サプライズ?あの子そういうのに対応できないから期待しない方がいいわよ?”
 冴子さんはうれしいだのさみしいだのと言いながら、何度も僕の肩や腕をはたいてきた。
 
 冴子さんたら笑っちゃうよ、全然わかってないんだもの。
 
「違うよ冴子さん、ほとりちゃんはね」
「あらまあ!ほとりちゃん、ていうの?かわいい名前ねぇ!」
「うん、ほとりちゃんてかわいい名前だよね!」
 
「ほとりちゃんはね、霧島に会いに来たんだよ」
「央人に?初めましてぇ、倉田冴子です、よろしくねぇ!」
 冴子さんは僕の話も聞かずに半ば強引にほとりちゃんの手を取った。
「私ね、楓の森で花屋をやってるの」
「メイプル通りの大きな楓の木、知ってる?そこの真向かいの赤いレンガのお店よ」
「今度遊びに来てね、かわいいブーケプレゼントするから!」
 冴子さんは戸惑うほとりちゃんにかまわず握手をしながら、“お目めぱっちりで小動物みたいでかわいいわぁ”とか“くせっ毛もかわいいわねぇ”と頭を撫でたりしていた。
 
“ほとりちゃんて名前、ほんとよく似合ってる。”

“うん、すごくかわいいよね”
 
 冴子さんは一通りほとりちゃんと触れ合うと、大声でマスターにあいさつをしながらカウンターの中へ入って行った。
 
「…す、すごく…おキレイな方…ですね…」
 ほとりちゃんは俯いたまま小さな声でそう言うと、
「黒髪…直毛…まさにヤマトナデシコ…」
とつぶやいた。
 亮介さんはあの“艶々の黒髪のロングストレート”に“惚れた”んだって。
 市場で初めて冴子さんを見かけた時、“俺のハート”が“何かに目覚めた”って亮介さんは言っていた。
「でもね、霧島は全然分かんないって、あははは!あ、亮介さんていうのは、冴子さんのだんなさんだよ」
 ほとりちゃんはどうやら緊張しているみたいだった。
 赤い顔を隠すように俯いたまま黙っちゃったんだ。
 
 冴子さんは毎週2回、マスターのお店にテーブル装花を納品に来る。この”ルーティン”はアネモネを始めた当初から続いている。
 冴子さん結婚式に使うお花なんかも作っていて、マスターのお店で飾ってあるお花を見た人から仕事の依頼がくることもあるから、テーブル花はその「CM代わり」なんだって。
 
 冴子さんは客席から手早くテーブル花を集めて回り、花器の古い花を捨て、水を入れ替えに行き、ソファ席のテーブルに戻るとすぐに持ってきた紙の包みを広げた。
 今日のお花はミニのヒマワリとオオデマリだ。

 僕は冴子さんの仕事を眺めるのが好きだった。
 花を切り分け始めるとその手はまるで機械みたいに速くて正確に動く。 ひとつひとつの動きに少しも無駄がなくて、まるで指先自体が一つの道具のように見えてくる。
 
「あの細腕で意外とパワフルなんだよね」
 
 豪快に見えるけど、繊細な花を傷めないように気を付けて扱ってるのが分かる。
冴 子さんが作る花束もアレンジも、鉢物のラッピングにしても、どれもみんな植物が生き生きとしていて、無理も無駄もなくて、そこにある花たち全部が喜んでいるように見えるんだ。
 
 
「今の時期ほんとはアジサイでいきたいとこなんだけど、狙ってた色が市場になくて」
 冴子さんはカウンターに向かってそう言いながら、
「今日はオーソドックスにちびのひまわりとオオデマリ、と」
 花器はどんどん花で埋まっていく。
 
 ほとりちゃんは椅子から降りて冴子さんの近くに歩み寄ると、
「このグリーンは利休草ですね」
と指差した。
「そうよ、よく知ってるのね!」
「はい、これは茶道部でもよく使うので‥」
「ほとりちゃん茶道部なの?!すごいじゃない!茶花も習うの?!」
「あ‥はい、あの、少しだけ‥ですが…」
 ほとりちゃんは照れたように笑いながら、ひまわりもオオデマリも大好きだと言い、捨てられる“モカラ”や“カリプソ”を夏らしくて素敵だと眺めていた。
 
 一つの無駄もなく、まるで魔法がかかったようにあっという間に完成したテーブル花を僕はほとりちゃんと手分けして各席に置いた。
 
 キッチンからいい匂いがし始めて、しばらくするとマスターが両手にお皿を持って戻って来た。
“冴子ちゃんもここで食べていくかい?”
“ううん、私は帰るわ”
“ありがとう、たまには家で作らないとね!”
 そう答えながら冴子さんはいつの間に片付けたテーブルの上を手早く拭いた。
 できたての“ナスとトマトのパスタ”を目の前にして、ほとりちゃんは感動の声を上げた。
「おいしそう!いい匂い!!」
 
 僕がふとお店の入り口に目をやったその時、ドアベルがカララン‥と音を立てた。
 
コロロロン…
 
「ヤベ」
 
 霧島はすぐにドアを引いたけど、冴子さんは見逃さなかった。
 
“何がやべえよ”
 力づくでドアを引くと、霧島の腕を掴んで店の中へ引き込んだ。
 そしてそのまま僕とほとりちゃんのもとへ“連行”し、ほとりちゃんの隣に押し込んだ。
“ほら謝りなさい、こんなかわいい子待たせて今までどこをほっつき歩いてたのよ”
“ちゃんと話聞いてあげなさいよ”
 冴子さんに“後ろを取られ”、けれど霧島にはその言葉の意味が解っていないようだった。
 
“よく知らないけど、ちゃんと優しくしてあげるのよ!”

“どんな事情があるにせよ、女の子には誠実に!わかった?!”

 霧島はほとりちゃん越しに僕を覗き、「ナニコレ」って顔をした。それから隣に座っているほとりちゃんの顔を見て、やっぱりじぃーっと眺めていた。
 
 ほとりちゃんは霧島の視線に弾かれるように勢いよく立ち上がり、真正面を向いたまま思いきり頭を下げた。
“っ…すっすすすすみませんでしたっっっ‥‥!!”
 聞いたことないくらい大きな声で僕はびっくりした。
 
“っこっっこここここんなっっこんなこんなとこまでおおおおおおお押しかけてっってしまいっっ‥‥ここここここんなじっっじかっっ時間までいいいいいいい居座って居座っっ居座っっってししししししまいっっっ…!!ごごごごごごごご迷、ごごご迷惑、惑をおおおおおおおお掛けしてっっしてっっしてしましましまいまししししてっっっ…!!”
 
 ほとりちゃんの上ずった声が店全体に響いた。
 頭を下げ続けるほとりちゃんを説明するように、僕は霧島に話し始めた。
 
「ここに来れば霧島に会えるって、僕が言ったんだ」
「でもさっき、今日が木曜日だって気が付いて、もしかしたら霧島来ないかもしれないって思ったんだけど、来たんだね」
 よかった、会えて‥と僕がほっとしていると、霧島は前を向いたままため息をついた。
「俺も忘れてた」
「あははは!やっぱり?!」
「腹減ってたから」
「あはははは!そうだと思った!あと今日さ、いつもは水曜日なのにナイキが正門にいたでしょ?
「それは知らねえ」
「あ、そっか!霧島今朝何時に学校来たの?」
 
“ちょっとあんたたち!ほとりちゃんをほったらかすんじゃないわよ!”
 
 冴子さんの激が飛んで、霧島は頭をはたかれた。
 
“ほとりちゃんは謝ってるでしょう?!どうしてかは知らないけど‥何ふたりだけで話に花を咲かせているのよ!”
 霧島はほとりちゃんを見上げ、ほとりちゃんは恐る恐る顔を動かして半分だけ霧島と目を合わせた。
 
 霧島は初めて会う人にはいつもそうするように、ほとりちゃんの顔をじっと見つめた。
“緊張で失神しそう”になりながら、ほとりちゃんは“なんとかその瞬間を持ちこたえた”。
 けれどそれはもちろん長くは続かず、すぐに正面に向き直り、直立不動のまま
“――あ、‥‥…あの時は‥‥‥っ‥‥大っっ変、――失礼を致しましたっっ…――”
 
 ほとりちゃんは“霧島の熱い視線”に“押しつぶされそうになりながら”、それでもどうにか声を絞り出した。
 そしてもう一度深々と頭を下げると、その体制のまま霧島の言葉を待っていた。
 
 あの時のほとりちゃんは、まるで蛇に睨まれたカエルみたいだった。
 
“誰?”
 
 僕はやっぱり!と思って笑っちゃった。
 
 霧島は案の定、ほとりちゃんの顔に見覚えがなかった。
 そして「茶器室での一大事件」も一切覚えていなかった。
 そもそもあの場所で昼寝をしていた記憶すらなく、ほとりちゃんに茶器を取ってあげたことも“身に覚えがない”って言ってた。
 
「ほらね、ほとりちゃん、だから大丈夫だって言ったでしょ」
 僕はうれしくてほとりちゃんの背中をポンポンと叩いた。
「霧島はなーんにも覚えてなかったんだから、ほとりちゃんが気にしてることはなんにもなかったと同じことだよ」
 
 でもほとりちゃんはむしろその“事実”に放心状態だった。
 そしてそれは冴子さんも同じ気持ちのようだった。
 
“なにそれ、サイっ低ぇ”
 冴子さんは霧島を睨みつけ、
“記憶にないとかあり得ないんだけど”と低い声で言った。
 それから霧島とほとりちゃんの間に割って入り、ほとりちゃんの肩を優しく抱き寄せると、そっと椅子に座らせた。
「私にはほとりちゃんの気持ちがよぉーっくわかるわ」
「こいつってほんっと、こういうヤツなのよ」
「つかあんた、学校でナニやってんの?」
 
 
 冴子は霧島の隣に回り、まるで刑事ドラマの尋問のようにカウンターに手を乗せた。
 
「たとえ些細なやり取りだったとしても、全く覚えてないってことはないでしょう?」
「てゆーかあんた、そこはうそついてでも合わせなさいよ」
「かわいい後輩の1年生が、こんなにかわいいほとりちゃんが、わざわざ先輩の“ホーム”に出向いてまで謝ってるってのに」
 
「上級生のテリトリー(シマ)に乗り込む気持ち、分かるでしょ?」
「震える心を抑えながら、勇気を振り絞って、必死でここまで来たのよ」
 
 よく知らないけど、と間に挟み、冴子さんは続けた。
 
「ほとりちゃんはね、いつ来るとも知れないあんたのために、何時間もここでこうして緊張に打ちひしがれながら待ち続けていたのよ?」
「仮に覚えてなかったとしても、とりあえずその気持ちを受け止めてあげるってことはできないわけ?」
 
 既に“第3者”を決め込んでいる霧島に、冴子さんはいつも通り長々とお説教を続けた。
 
“あんたにはフェミニスト精神てもんが皆無なのよ”
“こんなかわいい女の子に恥をかかすなんて”
“あんたには気遣いってもんがないわけ?”
“そんなんじゃ社会に出てやってけないわよ?”
“嘘も方便て言葉知らないの?”
“優しさのかけらも感じられない”
“人としてどうかしてるわ”
 
 霧島はそんな冴子さんの言葉に一切反応せず、ただ前を向いて頬杖をついていた。
 
「いくらなんでも誰?はないでしょう?」
 
 冴子さんに言わせると、霧島は“他人への思いやりとか配慮ってもんが足りないっていうより欠落してる”のだった。

“仮にもいたいけな女の子に対してその言い草”
“18にもなって社交辞令の一つも言えないなんて情けない”
“そもそもあんたは他人に興味がなさすぎるのよ”
“この世界にはね、いろんな人がいて、それぞれにいろんな気持ちがあって、みんながみんなの想いをそれぞれに思いやって生きているの”
“いつ何時でも自分ただ正直でいればいいってもんじゃないんだからね”
 
 マスターのお店には僕の好きな曲が流れ始めていた。
 
 冴子さんの“積もり積もった不平不満”は、マスターが霧島に夕食のパスタを運んできてからも終わらなかった。
 
 あの時のほとりちゃんはすごく申し訳なさそうだった。自分のせいで霧島が冴子さんが怒られちゃったって。あいつが冴子さんに小言を言われるのなんていつものことだから気にしなくていいよって言ったんだけど、まさかこんなことになるなんて、って泣きそうになっちゃってたもの。
 
 実際、当の霧島はそこに冴子さんの存在がないみたいに、平然とナスとトマトのパスタを頬張っていた。
 
「ほとりちゃんは何も悪くないのよ」
 冴子さんはほとりちゃんの背中を撫でながら、“全部こいつが悪いんだから”と霧島の髪を指で撥ねた。
 そしてまだ言い足りないとばかりに
“央人、あんたちゃんと家まで送ってあげなさいよ。”
と霧島の後ろから念を押した。

“それくらい当然でしょ?むしろあんたにはそれくらいしかできないわ”
“イヤとは言わせないから”
 そう霧島を覗き込むと、冴子さんはもうひと睨みしてから荷物をまとめ、マスターにあいさつをして颯爽と店を出て行った。
 
 僕は内心、冴子さんがああ言ってくれてよかったと思ったんだ。ほとりちゃんに気を遣わせることなく、霧島と話ができるチャンスだと思ったから。
 だから霧島が食べ終わるのを待ってから、ほとりちゃんを送って行ってもらおうと思ってたんだけど‥
 ほとりちゃんがほとんどパスタに口を付けていなかったせいで、結局霧島の方がずっと早く食べ終わっちゃって。
 リンゴジュースを飲み干して、フォークとスプーンをお皿に乗せ立ち上がろうとした霧島僕は慌てて呼び止めた。
 
「霧島ちょっと待って!ほとりちゃんが食べ終わるまで!」
「いいです、いいんです、ごめんなさい私、大丈夫です!」
 ほとりちゃんはパスタを口にいれたまま、僕と霧島を交互に見ながら大丈夫ですと繰り返した。
 
“うちここからすごく近いですし、全然一人で帰れますし、”
“私には送って頂く資格なんてないですから、”
“それよりこんなとこまで厚かましく押しかけてしまって”
“大事なお食事のところお騒がせして”
“ほんとに、本当に申し訳ございませんでした…!”
 
 霧島は空になった食器を手に、そのままキッチンへ歩いて行った。
 
 
 せっかく霧島がほとりちゃんと仲良くなれるチャンスだったのに、僕の計画は失敗に終わった。
 ほとりちゃんにも申し訳ないことをしちゃった。
 
 
「霧島センパイ、怒ってましたね」
 ほとりちゃんはすっかり落ち込んで、フォークも置いてしまった。
「怒ってた?」
「普通だったよ?」
 僕が見る限り、霧島は怒ってはいなかった。
「え、あのでも、完全に無視されてましたし…」
「無視?」
「はい、さっき一度も振り返らなかったじゃないですか、私の声なんか届いてないみたいで、改めてショックでした…
 
 霧島はいつも通りだった。

“あれが?”
 ほとりちゃんは目を丸くして僕を見た。
“うん、つまり、なんとも思ってないってことだよ”
“だから安心して”
“―‥はぁ、…いいのか、悪いのか…”
 
 キッチンから出てきた霧島は、そのまま何も言わずに店から出て行った。

「ほとりちゃん、ごめんね」
 霧島に送ってもらえなくなっちゃって、ごめんね。
 
 僕じゃイミないのにさ。
 
 
ほとりちゃんがパスタを食べ終わるのを見届けて、閉店の片づけをしていたマスターが僕にこう言った。
 
「夏目君、ほとりちゃんを送ってあげてね」
 その言葉にほとりちゃんは思い出したように顔を真っ赤にした。
 
 あれは今でもほんとに悪いことをしたと思ってるよ。
 ほとりちゃん、帰り道でもずっと黙ったままだったし…残念だったんだろうなぁ。委員会で会うときはいつもよくしゃべるのに、あの夜の道はまるで別人みたいだったもの。
 
 
 
 あの時、霧島がほとりちゃんを覚えてないって言ったのは半分本当で、もう半分はあいつなりの気遣いだったんじゃないかって、僕は思うんだ。
 
“霧島はなーんにも覚えてなかったんだから、ほとりちゃんが気にすることはなんにもなかったと同じことなんだ”って僕は改めてほとりちゃんに説明した。
 
 自分が何も覚えてないなら、何もなかったことになるから――
 あいつなりに、どうるすのがほとりちゃんにとって一番いいのか、ちゃんと考えてからああ言ったんだ‥きっとね。
 
 あ、でもほとりちゃんの顔を覚えてなかったのは、本当だと思うよ。

 別れ際、僕はもう一度ほとりちゃんに謝った。

 ごめんね、僕じゃ意味ないのに。

 ほとりちゃんは一度も顔を上げなかった。

 これからはもっと霧島がほとりちゃんを好きになったらいい。
 僕に何ができるかな‥。

 あの夜はなんだかまた楽しいことが始まりそうな、そんな予感がしていたんだ。

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