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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出①』

「真夏に降る雪」 

 あの日はすごく暑かった。奥のばばちゃんの部屋は少し暗くて、畳の上はひんやりとして気持ちがいい。開けっ放しの障子から縁側の小さな風鈴の音が風に乗って聴こえていた。
 カララン・・
 寝ころんだまま見上げた霧島の顔がいかにもって感じで、僕はおもしろくなった。畳の上に頬杖をついて、腰を下ろした霧島の言葉を待った。

 カララ・・
 畳の上に置いたソーダ水の泡が気持ちよさそうにすぷすぷしていた。
 濡れたコップを手に取ると、僕は氷をカランと鳴らした。
 ばばちゃんの庭のレモンミントの葉に涼し気な泡が積もっている。
 カララン・・・
 体を起こし、霧島の目線の先を見上げると、窓辺のジャムの小瓶に挿したナスタチウムが真っ青な空に映えていた。

 僕たちは中学3年生だった。
 夏休みも毎日朝から夜まで一緒に過ごしていた。宿題はとっくに終わらせていたから、裏の畑の野菜採りも、ミツロウの軟膏づくりも、カレーに入れるハーブ摘みも、霧島と二人でたくさんばばちゃんのお手伝いをした。

 霧島はリンゴジュースをごくりと飲み干した。そしてようやくその不機嫌な理由を話してくれた。

「バイトしねぇかって。」
「バイト?!」
僕は立ち上がって「やる!」と答えた。
「‥まだ何も説明してな‥」
「アネモネでしょっ?!行こう行こう!すぐ行こう!何やらせてくれるって?!」
「‥とりあえずそれ飲めよ。おまえ汗びっしょりだぞ。」

 ばばちゃんが作ってくれたレモンミントのソーダ水は、のどの奥で爽やかな香りを放ちながら勢いよく僕の胃袋に流れ落ちた。
「ゆっくり飲め。」
 氷をボリボリかじる僕に霧島は呆れていたけれど、僕はもううれしくてわくわくして、いてもたってもいられなかった。

 そうして全く気乗りしない霧島を自転車の後ろに乗せて、僕はアネモネに向かってペダルをこいだ。

「ばあちゃんが夜カレー作って待ってるって。」
「‥!!ひゃぁっほーー!!」
 びゅんびゅん自転車を走らせながら、僕は大きな声をあげた。ばばちゃんのカレーは世界一なんだ。

 桜の森公園の横を走る薄紅通りを風を切って飛ばしていく。背中合わせの霧島は「クソあちぃ」と何度もぼやいて、何度も「行きたくねぇ」と「クソめんどくせぇ」を繰り返していた。

‘楓の森’に入るとまだ緑色のモミジの木があちこちに見えてくる。メイプル通りのモミジ並木をぐんぐん進み、目印の大きな楓の木を目指す。向かいにある真っ赤なお花屋さんがアネモネだ。
 アネモネは亮介さんと冴子さんの新しいお店で、夏休みが始まってすぐに僕たちも開店のお手伝いをした。
 そういえばあの時も霧島と亮介さんはひともんちゃくあって、僕は今でも思い出すだけで笑っちゃう。

 あの日も突然ばばちゃんの庭先に亮介さんがやって来て、「おまえらバイトだ」と話を持ち掛けた。そしてやっぱり霧島は断固拒否した。
「即答か」
「中3の夏休みナメんな」
 そっぽ向いた霧島を、亮介さんは鼻で笑った。
「縁側でラベンダーの葉っぱしごいてるやつが言うセリフかよ」
 僕たちはそのとき、乾燥させたラベンダーの花を細かくして布袋に詰めていた。タンスにいれておくと服にいい香りがつくし、服を食べる虫よけにもなる。
「何が中3の夏休みだ偉そうに」「普段から勉強道具もロクに触んねえガキが」
 亮介さんは縁側に腰掛けて、いつもみたいに霧島に“ウザがらみ”を始めた。
「おまえにはうちでバイトやったほうがよっぽどいい勉強になるだろ」
「どうせ試験勉強なんかしねぇんだからせめて人の役にでも立っとけ」
 霧島に言わせれば“もっともらしいこと”で亮介さんは説得を続けた。
「そもそもこいつらの志望動機自体が完全にナメてるんだよ」そうばばちゃんに投げかけ、「まぁおまえらみたいな秀才が考えそうなことだけどな」と付け足した。
「だいたいこの夏をどう過ごしたところでおまえがどうこうなるとは思えない」
「結局のところは四の五の言わずに手伝やいいんだ」
「喜べ、おまえら二人は特別にうちの準従業員にしてやるよ」
「喜ばねぇしならねぇし」
 準従業員てなんだよ、と霧島は鼻を鳴らした。
「おいそこのちょんまげ。」
 長い前髪を輪ゴムでくくっている霧島に向かって、亮介さんは身を乗り出した。
「とりあえず絹子さんにはもう許可取ってあるから。あとそこのラベンダーも株分けしてもらって店の横に植えるんだ。もちろんおまえらが手伝うんだぞ。」
「この時期にやって大丈夫?」僕が尋ねると、亮介さんは冴子も同じことを言ってたと肩をすくめた。
「うまくやるさ、オレを誰だと思ってるんだ?」
「ただの亮介だろ」
「んだとコラ霧島!」

 僕は二人のやりとりが始まるとおもしろくてずっと見ていたくなる。霧島のことがかわいくて、かまってほしくて仕方がない亮介さんと、亮介さんのことがうっとおしくて仕方がない霧島のうれしそうな口元。

 霧島は亮介さんの“自分勝手のかたまり”に反論する方が疲れるとだんまりに入った。
「夏目、おまえは来るだろ。」
 今度は僕に目を向けて、亮介さんは目だけで「なんとかしろ」と訴えた。
「霧島、お手伝いおもしろそうだよ!行ってみようよ!」
 僕は早々にラベンダーを広げた新聞紙を片付けながら、霧島の顔を覗き込んだ。
「亮介さんの奥さんにも会ってみたくない?」
 そう言うと霧島は「一番どうでもいい」と心底面倒くさそうに溜息をついた。
「てめぇ俺サマの嫁のことがめんどくせえとは何事だっ」
「‥‥」
「亮介さん、霧島は奥さんのことをめんどくさいとは言ってないよ、どうでもいいって言ったんだよ」
「どうでもいいってどういうことだ、オイコラどうなんだちょんまげ野郎」
「マーヤ、行こうぜ」
「あ!行く?」
「気を付けて行ってらっしゃい」
 ばばちゃんがうふふと笑い、亮介さんは立ち上がった霧島を見上げた。
「つかなんでいんの」
「‥っはぁ?!」
「あははははは!あはははは!」

 相変わらず相容れない二人のやり取りは、いつも本当におもしろいんだ。

 

 僕らがお店に到着すると、すぐに亮介さんが両手に白いダンボール箱を抱えて出て来た。
「っ遅ぇなぁすぐ来いっつったろーが。」
 亮介さんが前を向いたままの霧島に「その顔」と小突くと、膝に乗せられた段ボール箱に霧島は「箱デカ」とこぼした。
「頼むな、帰ったらキンキンに冷えたポカリやっから!」
 見るとお店にはお客さんが何人もいて、亮介さんはいつもみたいに霧島に“ウザがらみ”する間もなく戻って行った。

 僕は’楓の森’から配達の住所へ自転車を走らせながら、帰りはあそこの道から帰ろうと思った。‘楓の森’と‘桜の森’の間くらいにある、それまで行ったことがなかった閑静な住宅街。
 亮介さんにお使いを頼まれたおかげでこんなところまで来れたね、と僕は言ったけど、霧島は段ボールを抱えたまま押し黙っていた。


 お花を届けたお宅の庭には大きなミモザの木が植えられていた。立派なエメラルドグリーンの立ち姿、その後ろに広がる真っ青な空。

 玄関から出て来た女の人は僕らを見てとても驚いていた。
「大変!」
 そう声を上げるとすぐに家の中へ戻って行った。
「これ、よかったらどうぞ、暑い中ありがとうね。」
 白いタオルを頭からかぶり、僕はキンキンに冷えたペットボトルの水を飲んだ。
 霧島は僕の顔と頭をタオルでわしゃわしゃ拭きながら、「少しの間そこの日影にいさせてください」と頼んだ。
「いくらでもいてちょうだい。よかったら家へ上がっていく?」
 霧島は女の人の提案を丁寧に断った。
 それから受け取りのサインとお金を受け取って、自分もペットボトルの蓋を開けた。
 僕らはしばらく玄関先で休ませてもらった。
 雲一つない青空が際限なく広がっていた。


 蒸し暑い午後の日射しがアスファルトを照り付けていた。
 僕は決めていた通り、薄紅通りを横切って住宅街に続く道へ入った。

 と、鼻先の少し上の方で、何かが浮かんでいるのが見えた。
 僕は自転車をゆっくり止めて、背中で霧島が「なに」と漏らした。

「アザミの綿毛だ。」

 宙に漂うそのふわふわを追いながら、僕は自転車をゆっくり引いた。
 進むごとに綿毛の数が増えていく。
 そしてその先の十字路に辿り着いた時、うそみたいな景色がそこにあった。
 ものすごい量の綿毛が一帯を埋め尽くすように吹き集められていた。
 アスファルトから頭の上の上の方まで、信じられない量だった。
 僕はその見たこともない光景に呆気に取られていた。
 まるでたくさんのボタン雪が空から舞い降りてきたような、それとも地面から次々湧いてきているような―――何とも言えない幻想的な光景だった。
 風もたいして吹いていないその場所で、ものすごい数の綿毛が舞い上がってはふわふわと降りて、そしてまた舞い上がって――僕らはまさに、スノードームの中にいるようだった。

「真夏に降る雪‥」

 あれは本当にすごかった。
 霧島でさえ思わず「すげぇ」とこぼした程だ。

 それまでは一秒でも早く帰って涼しい部屋で冷たいソーダ水をがぶ飲みしたいと思っていたけれど、そんな疲れも喉の渇きもいっぺんに吹っ飛んだ。
 目の前の幻想的な光景に、心をまるごと持っていかれてた。

 僕らは炎天下に突っ立ったまま、ただただその世界に見惚れていた。

 翌年の春、あの綿毛の正体が明らかになった。

 あの十字路からすぐそばの小道を抜けた広い空地で、アザミの群生を見つけたんだ。
 それはもう、圧巻の光景だった。
 穏やかな日差しを全面に受けて、彼岸花の赤とも違う、もっと濃くて、深い、鮮明な――、鮮血の赤だった。
 膝丈くらいの高さで波のようにうごめく赤に、僕は息を呑んだ。
 すぐそこに広がっていたのは、圧倒的な生命力。ひしめくように咲き誇る、野性的で、燃えるような赤の群れ――。

「あんなにたくさん綿毛を飛ばしても、ここじゃないと生きられないんだ」
 やっと声になったとき、急に頭の中が冷静になった。
 胸の奥の方がぎゅうっとなった。
 ここに生きている無数の花は、まるで一体の巨大な生物のように、たくましいエネルギーに満ち溢れている。
 こんなにたくさんの花を咲かせ、あんなにたくさんの綿毛を飛ばしている。
 なのに、この花をここ以外の場所では見たことがない。

「土なのかな。」
 見ると霧島はその群生に真っ直ぐ目を奪われていた。

 心地良い風が空き地一帯を吹き抜けていく。

「ここじゃなきゃダメなんだね‥。」

 飛ばした綿毛は風で外へ運ばれてしまう。
 ここに残った綿毛だけで、それでもこんなに見事な群生になる。


「ここがあってよかったな。」


 霧島の溜息みたいなその声に、僕はやっぱりうれしくなった。
 また来年も、この光景が見れたらいい。そう思った。

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