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「きみがくれた」スピンオフ『マーヤの思い出⑦』

「奇跡」


 スミレの種は、霧島のアパートの敷地の隅と、マスターのお店の中庭にも蒔いた。
「結構適当なんだな」
 ジャンパーのポケットからゴマみたいな黒い粒を蒔いて歩く僕を、霧島はアパートの階段から眺めていた。

 前の乾いた涼しい風が吹いていた。

「そんなんでいいの」
「さぁ、スミレ次第だね」
 僕は昨日の夜のことを思い出して少し笑った。
「ここが気に入れば芽を出すし、気に入らなければ出さないかも」
「来年の春に芽を出すかもしれないし、十年経っても出さないかも」

 ばばちゃんのスミレは、遠い異国からやってきた。

“本当は、この土地を選ばないお花なの”
 ばばちゃんはそう話してくれた。

“バクチだな”
 階段の今にも壊れそうな手すりにもたれ、霧島はどうでもいいことのようにつぶやいた。

「ちがうよ」
「バクチじゃなくて、奇跡だよ」

 僕は霧島に僕が大好きな植物の種の話をした。

 道端に咲いた小さな花も、空地の草も、石の壁に積もったほんの少しの土から出る芽も、どれもたくさんの偶然が重なって生まれた、この星の奇跡なんだよ。
 どの植物の種もそれぞれに生きる条件があって、そこに生きると決めたら芽を出すんだ。
 だけどそれを決めるのはいつになるかわからない。
 決めたとしても、そこで生きていけるかどうかわからない。
 どの植物もみんな、芽を出すこと自体が命がけなんだ。
 その命を繋いでいくことは、本当に奇跡。
 奇跡の連続で命は繋がっているんだよ。

「ね、すごいと思わない?」
 僕はポケットの残りの種を空へ蒔いた。
 すっきりと晴れ渡る青い空に、ばばちゃんのスミレの命が飛んで行った。

“ばばちゃんが大好きなこのスミレが街のあちこちで咲いたら素敵だと思わない?”

 霧島は僕の話を全く興味なさそうに聞いていた。

「ばばちゃんのスミレはこの街の生まれではないけれど、ばばちゃんの庭で花を咲かせたんだって」
「長い時間をかけて」

 初めてばばちゃんのお庭でスミレの花を見た時、僕はばばちゃんにこの話を聞いた。

“ばばちゃん、このお花かわいいね”

 背の低い草の間から、それはいくつも顔を覗かせていた。

“ばばちゃん、このお花すごく小さいね”

“そうねぇ、まーちゃんの小指の爪くらい小さいねぇ”

“ばばちゃん、このお花、なんていう名前?”

 ばばちゃんは僕のそばに腰を下ろし、
“それかい、それはね、すみれ”
と教えてくれた。

“これはね、ずっと昔に、ずっと遠くの国からやってきたの”
“遠くの国?”
“そう”
“こことは違う土と、こことは違うお水と、それからこことは違う太陽の光が照る場所”

「本当は、この土地を選ばないお花なんだって」

“選ばない?”
“芽を出そうかな、よそうかな、ってね、ここはちょっとちがうかな、って”
“でも、こんなにたくさん咲いてるよ”
“そうねぇ、今ではこんなにたくさん、咲いてくれたねぇ”

“たくさん、たくさん時間をかけて、少しずつ、ほんの少しずつ、数も増えてくれたねぇ”
“そんなにたくさん時間がかかるの?”
“たくさんて、どのくらい?”

「僕らが生まれるよりもずっとずーっと前から」

“えぇ!そんなに?!”
“――ふふふ。”

 スミレを見てる時のばばちゃんはすごく幸せそうだった。
 あのスミレは、きっとばばちゃんの大好きな人が、ずっと昔にあそこに種を蒔いたんじゃないかって僕は思ってるんだ。

「その人はきっと、遠くの国で偶然あのスミレを見つけてさ、ばばちゃんに本物を見せてあげたくなったんだよ。だから種を持って帰ったんだ。花を摘んでも枯れちゃうからさ。」

「ばばちゃんにこの花を見せてあげたかったんだよ。どんなにたくさん時間がかかっても。」

 振り返ると霧島は眠たそうな顔で手すりに寄りかかっていた。

「もう、ほんと霧島は全然植物に興味ないんだからなぁ」

“ねぇ霧島”
 僕は霧島に向かってこう言った。
「それってすごいことだと思わない?土も、水も、光も、全然違う環境で、何十年もかけて花を咲かせたスミレもさ」

“ねぇ霧島”
“植物ってすごいよね”

“そう思わない?”
“霧島”

 僕は小さい頃からお花が大好きで、ばばちゃんの家に行くといつも縁側で植物の話をしていた。そんなとき霧島は大抵、縁側のひだまりで寝ころんでいた。

 アパートの隅で最初の一輪を見つけた時、僕は本当に感動した。
 でも霧島は
“執念だな”
って、ほんと霧島っておもしろいんだ。
 僕は青い空に向かっておもいきり笑った。


 ハルニレの木の中庭に蒔いた種も、芝生の隙間から花を咲かせた。

“こっち見てよ霧島!”
“ほらここ!”

 まさかと思った。だって、種が芽を出して花を咲かせるまでに、すごく時間がかかると思ってたから。

“見てよ、ばばちゃんのスミレが咲いてる!”
“霧島!”
“見てよ!ここにも咲いたよ!”
“すごいね!強いんだね!!”

 高校生の頃、僕と霧島が一緒に過ごしていたハルニレの庭。
 大きな木の幹にできたちょうどいいくぼみが僕の特等席だった。僕はちょうどよく盛り上がった根っこをイスに、そのくぼみに体を納めて座るのが好きだった。

“ばばちゃんが大好きなこのスミレが街のあちこちで咲いたら素敵だと思わない?”

 霧島は芝生の上に足を投げ出し、地面に張り出した根に寄りかかってマーヤの声を聞き流していた。

“ほら、ばばちゃんの庭に咲いていたスミレだよ”
“すごいね!”
“ここでも咲いたよ”

 けれど霧島は木の根っこに寄りかかったまま、「そんなんあったっけ」と返しただけだった。
「ウソでしょ?!」
 あれにはほんと驚いたけど笑っちゃった。
 霧島は全然植物に興味なんだからなぁ。

 それでも僕は霧島によく植物の話をしていた。
“植物の種の発芽って、いろんな奇跡が重なって起こる、奇跡中の奇跡なんだよ”
“人間の手でよい条件を作ろうとしたら、土とか水とか湿度とかをその植物に最適な環境にして――”
 霧島は芝生の上で寝転がったまま「めんどくせぇな」とこぼした。

“そうだよ、簡単じゃないんだよ”
“だからちゃんと選ぶんだ”
“ここで生きられるかどうか”

“生きられなければ芽も出さない”
“土の中でじっとその時を待つんだ”

“土の中が一番安全だからね”

 けれど僕ががどんなに話して聞かせても、霧島はほとんど眠ったように目を閉じていた。

 ばばちゃんのスミレはフリージアに似た匂いがする。
 フリージアより浅い、華やかな匂い。

 高く昇った太陽の陽だまりに、ふわりすっきりと澄んだ香りが立ち昇る。

“フリージアだ!!”
 初めてスミレの匂いをかいだ時、僕は縁側で昼寝をしている霧島にそう叫んだ。
“霧島!”
“ちょっとこっち来て、ほら!”
“このすみれ、フリージアとそっくりな匂いがするよ!”

“正解”
“まーちゃんは鼻がいいねぇ”
 ばばちゃんは僕の隣でうれしそうに目を細めた。

“すごいね!ばばちゃん、このお花、すみれなのに、フリージアとそっくりな匂いがするね!!”

 霧島はその時のことも全然覚えてなかった。
 中庭で初めてスミレを見た時だって、ばばちゃんのスミレだよって教えたら
“そんなんあったっけ”
だって。

“ほら、あのスミレだよ、フリージアに似た香りがする、ばばちゃんの庭に咲いていたスミレだよ”

“もう、ほんと霧島って植物に興味ないよね”

 
 縁側の穏やかな日差しの中、ばばちゃんの優しい笑顔が僕に尋ねた。

「まーちゃんは大きくなったら何になりたいの」

「ぼくね、大きくなったらしぜんはくぶつがくしゃになるの」

 僕は小さい頃から植物が大好きだった。雲や、空も、虫や、犬や、猫も大好きだった。だから安西先生が言ったんだ。

“光樹は大きくなったら自然博物学者になるといい”

 小さかった僕はその言葉の意味がよく分かっていなかった。

“ぼくね、大きくなったらしぜんはくぶつがくしゃになるの”
 そう答えた僕に、ばばちゃんは優しい目をいっそう細めてこう言ってくれた。

そぉ、すごいねぇ。
まーちゃんにぴったりだねぇ。

「ばばちゃんぼくね、行きたいところがあるんだ」
「大人になったら絶対に行くんだ」

 僕はばばちゃんにいろんな話を聞いてもらった。
 僕はばばちゃんが大好きだった。

 僕はばばちゃんの家も大好きだった。
 ばばちゃんの家は一人でいても全然淋しくなかった。

 僕はいつもあの家で霧島の帰りを待っていた。

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