見出し画像

「きみがくれた」スピンオフ『マスターの思い出➁』

「高揚」


 聖が働いていた整備工場は、土地柄車やバイクだけでなくヨットやボート、水上バイクなんかも持ち込まれていた。
 顧客の多くは名高い大手の会社社長とか、不動産のオーナーとか、別荘をいくつも所有しているようなジェネラル級の会社役員ばかりで、当然依頼される車も国内外の高級外車が当たり前だった。
 工場に遊びに行くたびに見たこともない高そうな車がずらりと並んでいて、俺はそれを眺めに行くだけでも楽しかった。
 もちろん女性のお客さんもたくさんいて、芸能プロダクションの社長や化粧品メーカーの重役に就いているような人もいた。雑誌の編集長とか、高級ブランドのデザイナーとか、とにかくキラキラしている人が多くて、彼女たちはわざわざ遠方から修理の車を持って来た。該当の車はもちろん、セカンドカーもとびきりの高級車で、気さくなお姉さん、お嬢さん方は俺を車に乗せて海岸を走ってくれたこともあった。

 ボスは聖の仕事ぶりをかっていた。
 聞いた話では、聖は15~16歳から整備の仕事をしていたらしく、あの海辺の工場で働き始めたのは20歳になる前くらいの時だった。
 俺が聖と出会った頃には、あいつはもう一人前に仕事を任されたいた。ボスも認めるその腕を見込んで聖を指名してくる常連さんもたくさんいた。

 そしてとにかく聖は女性の人気がすごかった。
 グレードの高い人や物に目が利く彼女たちに言わせると、聖は“油で汚れたつなぎの作業着もオシャレに着こなしている”し、“そのままハイブランドのショーに出てもおかしくない”らしい。
 たまに聖がガレージの入口近くでごつい工具を握ってボンネットの中をいじっているのを見つけると、“綺麗な手が油まみれになるのは反対”だとか、“危ない仕事はしないで”とか、”早くこの仕事を辞めて欲しい”という声が飛んでいた。まして車の下にもぐるなんて危険すぎるし、ケガをしたらどうするの、なんて。あいつにしてみれば10年近くやってる慣れた仕事なんだけど。
 それよりも雑誌の専属モデルにスカウトしたいとか、アパレルでカリスマ店員になって欲しいとか、カットできなくていいから美容師のフリをしてお店に立って欲しいとか、働かなくていいから家にいて欲しいとまで言い出す人もいた。

 でも、実は俺も聖が仕事をしているところを見るのが好きだった。
 聖の仕事は早くて丁寧、確実が当然という完璧なものだった。手の動きには少しの無駄もなく的確で、その手際の良さはまるでゲームをクリアしていくような心地よさがあった。ひとつの迷いもなく、正確に、最短で仕上げていく手指の動きを見ていると、そのクリアな流れは緻密なカラクリがひとつひとつ成功していくような爽快感があった。
 俺は、あれはひとつの芸術だと思っていた。
 聖が触ると車でもバイクでも見る見るうちに生き返る。まるでパソコンのキーを打つような指使いで細かい作業もあっという間に片付ける。
 俺はすっかり感心し、感動した。そしてもっと見ていたいと思った。
 聖の容姿からは想像もつかない体力仕事を、普段の聖の雰囲気とは到底結びつかないような熱量でこなしている姿に、俺はすっかり魅せられていたんた。

 聖のギャップは最初から俺を驚かせた。

 仕事が休みのある日、俺はいつものようにバイクを走らせながら適当な被写体を探していた。
 初夏の真っ青な空の下、道路の左手には遠洋の青緑色にきらめく海がどこまでも続いていて、その青を背景に、遠く真っ白な美しい灯台がくっきりと映えていた。
 俺はバイクを停めてその灯台にカメラを向けた。
 海岸を見下ろせば燦燦と照り付ける太陽の光が青い海と白い砂浜を輝かせていた。
 俺は思わずカメラを下ろした。目の前には見惚れるほどにコントラストの美しい景色が広がっていた。

 
 再びバイクを走らせた俺は、左に過ぎていく海を横目に、それでも道路の向かいにあったその車を見逃さなかった。
 俺は反射的にUターンして、気が付けばその車が停められていた空地に乗り入れていた。

 そこに停まっていたのは、一台のクラシックカーだった。

 信じられなかった。

 そこは海岸沿いの道路に面した、なんでもない空地だ。
 そんなところに、あの映像か写真でしか見たことがなかった、激レアの超絶カッコいい車があったんだ。
 それは、世界中で大ヒットした、超有名な古い映画に登場した車と同じ車種だった。

 そんな夢のような車が、目の前にあったんだ。

 俺は昔からその車の大ファンだった。
 車体の色はアイボリーに変えられていたから、見過ごしても仕方ないくらいだったけれど、俺の目はそのフォルムをしっかり捕らえた。
 反対車線からでもその存在感を察知した。
 それくらい大好きな、憧れの車だった。

 あの時の興奮は未だによく覚えている。

 俺は息をするのも忘れるくらい目の前の車に集中していた。
 感無量過ぎて、頭がどうかしそうで、胸がいっぱいになっていた。

 穴が空くほど見つめるって、ああいうことをいうんだろう。
 どれくらいその車を端から端まで眺めていたか‥しばらく経ったらやっと心が落ち着いてきて、その車が本当に本物かどうかを確かめる理性は戻ってきた。
 だいたいあのレベルの車があんな潮風が吹きすさぶ場所にカバーもかけず無防備にさらされているなんてあり得ない。
 本来ならば博物館や最低でもショールームとか、とにかく適切な場所で適切な環境で保管されるべき価値のある車なんだから。
 風雨にさらされるような屋外に無造作に放置されるべき車ではないんだ。

 そう考え始めたら、僕はなんだか怒りともいえる感情に襲われた。
 この車をこの色に塗るなんてきっとセンスのあるオーナーさんだろうと思っていたけど、この扱いはないと。

 けれどそのうち、この最高級で超有名で希少価値の高い車を、こんな風に一般の車以下なカジュアル過ぎるやり方で扱っているオーナーがどんな人物なのか、とても興味が湧いてきた。
 きっと社会規模でお金を動かすような大会社の社長か、地球全部が遊び場みたいな童心溢れる大人か、それとも世界を舞台に芸術的な活動をするアーティストか‥
 その車を前に、俺は過剰な特別扱いをしないということがむしろカッコいいとさえ思えてきた。

 そして俺は急に焦り始めた。
 このチャンスを逃したくないと思った。
 車の持ち主にも会いたかったし、車の写真も撮らせて欲しかった。入手した経緯も教えてもらいたかったし、車の中も見せて欲しかった。可能なら座席にも座ってみたかったし、できれば運転もさせてもらえたら、せめてエンジン音だけでも聞けたら‥なんて、その車の前で一人悶々と考えていた。

 あの時の俺は言葉では言い表せないくらい舞い上がっていて、夢の中にいるような心地だった。

 
 どうにか気持ちを整えて、辺りを見回すと、その空地の横に古いプレハブ造りのガレージが建っていることに気が付いた。
 周りに停めてあった高級外車やその向こうには小型の水上バイクなんかもあって、そのでっかい建物はどうやら整備工場だと分かった。
 ガレージのシャッターは開いていて、俺はその端から中を覗いて、手近にいた工場の作業員らしき人に声を掛けた。それであの車のことを尋ねると、その人は工場のボスを連れて来てくれた。

 ボスは開口一番、俺にこう言った。

“買いたいなら諦めな”
 
 そうではなく、俺はあの車のオーナーに会いたいだけだということを伝えた。会って話を聞きたいだけだと。そしてできれば写真を撮らせて欲しいと。
 するとボスは意外にもあっさりと、黙って俺をガレージの中へ招き入れてくれた。

 プレハブの中は若干涼しく、外から見るよりずっと広々としていて、奥行きのある造りだった。
 ボスに続いて奥へ奥へと進んで行くと、着いた先には真っ黒な4トントラックが置かれていた。
 ボスはそのトラックの前輪辺りをゲンコツでゴンゴンと2回叩いた。
 ボスの拳は浅黒く日に焼けて、岩みたいに固そうだった。

 すると車の下からカンカンと金属音が2回聴こえた。

“まだしばらくかかる”とボスが教えてくれて、俺はそれでもいい、仕事が終わるまで待たせて欲しいと伝えた。
 そしてできればその間にあの車の写真を撮らせて欲しいことを伝えると、ボスはドスのきいた太い大きな声で、“車の写真を撮りたいとよ”と車の下に向かって言った。

 すると今度はカツッと短く1回音が鳴った。

“OKだ”
ボスはそれだけ言うと俺を残してどこかへ行ってしまった。

 俺は小躍りしたい気分になった。
 急いで空地へ戻り、憧れの車の前に立つと、再び浮足立つ体を押さえるのが大変だった。
 俺はもう一度その車をじっくりと眺めるだけ眺め、それから好きなだけ、思う存分カメラに納めた。

 どれくらい時間が経ったか、俺も夢中だったからほとんど覚えていないけれど、突然ガレージの中から大きなエンジン音が鳴り響いた。
 頑丈なプレハブがビリビリ振動して、地面が震えるような爆音に、俺は驚いてガレージに走った。
 するとすぐそこに立っていたボスが、今度はさっきとは比べものにならないくらい、まるで獣が吠えるような大きな声で“OKだ!!”と叫んだ。
 その声のボリュームが凄まじくて目がしばしばした。鼓膜にビンビン響くまさに野生の声だった。

 その後、ガレージの入口で唖然としていた俺にボスが教えてくれた。

“会いたきゃ海岸に降りな”って。

 さっきトラックが停めてあった場所の近くにも出入り口があって、そこから裏の海岸に行けることを教えてもらった。
 
 俺は足早に再びガレージの奥へ奥へと進んだ。

 遠目にトラックの運転席からひらりと飛び降りた後ろ姿が見えた。
 そのグレーのシルエットは開け放した出入口からガレージの外へと消えて行った。

 俺は急いで後を追った。

 
 高鳴る胸の音に胸を詰まらせながら走った。
 心臓が喉にあるみたいな浅い呼吸で。

 あれは確かに、少年の頃の純粋な好奇心だった。

 
 真っ青な夏の空の下を、逸る気持ちを抑えようともせずにあの後ろ姿を目指した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?