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長編小説「きみがくれた」中‐⑨

「作戦」


 冴子がまた霧島の“捜索願”を出すと言い出した。

“いい加減しびれをきらしている”冴子に亮介は“そろそろ手に負えなくなってきた”。

 冴子にしてみれば“いったい何日経ったか分からない”くらい霧島の姿を見ていない。

 
 昨日の昼時、混雑している店へ入って来た冴子は、
「亮ちゃんもマスターもどうかしてる!」
と店内のお客さんたちの視線も構わずマスターに言い放った。

“どうしてそんな平気な顔をしていられるのよ?!”
“あの子にまで何かあったら私‥っ”

 霧島が帰って来ていることを知らない冴子は、“恐らく20日近くは会っていない計算になる”。
 冴子はその間何度となく警察へ行こうとしていた。
 それは“当然の考え方”で、“尋常でない心配の仕方も無理はない”。

 マスターは怒りを抑えようともしない冴子を前に、”その主張を受け入れるしかなかった”。

“こんなに長く帰らないのは初めてよ!”
“もっと早く捜索願を出すべきだったのに!!”

“あの子にまで何かあったら”

 高1の夏休みにいなくなった時でさえこんなに長くなかったと訴え、冴子は一人でも警察へ行くと言ってきかなかった。

 慌ただしい昼時の店内で、マスターは冴子を宥めることを半ば諦めているように見えた。


「昨日は本当にすみませんでした」
 翌朝開店前に“観葉植物”の入れ替えにやって来た亮介は、店に入って来るなり深々とマスターに頭を下げた。
「まさか乗り込んでいくとは――しかも一番混んでる時間帯に‥」
 アネモネを閉めて冴子を迎えに行くには、店にいたお客さんの数と配送の手配の件数が多すぎた。
 亮介は冴子を“丸投げ”してしまったことをマスターに何度も謝っていた。

 昨日の夜も、亮介は“冴子の精神状態のせいで”眠れなかった。

 ひとしきりお詫びの言葉を述べてから、亮介は仕事に取り掛かった。


 全ての植物を入れ替え終わると、亮介は改めてマスターに謝った。
「本当に申し訳なかったです」
「電話一本で済ましちまって‥」

「いや、こっちは大丈夫だよ」
「それよりやっぱり…そろそろ限界なのかもしれないね」
 マスターは亮介にアイスコーヒーを差し出し、冴子に霧島のことを話すよう提案した。

「夏目君のお父さんはおととい発って…まだ帰られてないんだったね」
「はい、多分向こうでいろいろやることがあるんだと思います‥」
「冴子ちゃんには夏目君のこともまだちゃんと伝えていないんだよね‥その上央人も戻らないとなると、心配ばかり募るのは無理もないよね」

「はい‥俺も、もうそろそろヤバいっす」
「亮介君、痩せたよね‥ちゃんと食べてる?」
「俺のは精神的なダメージっつーか‥マスターだって相当――」

カラララン・・・コロロロン・・・

「おはようございまーす!マスター、2人なんだけど!」
 
 暗い二人の空気を覚ますようにお客さんが入って来た。

「いらっしゃいませ」

 マスターは立ち上がり、カウンターの中から声を掛けた。

「お好きな席へどうぞ」

 マスターはお客さんを中へ通し、レモン水をグラスに注いだ。

「冴子に秘密にするんじゃなかったかな‥」
 亮介はぽつりとそうこぼし、ストローをつまんだ。
「――うん‥でも、少なくともあの時は、話をするタイミングではなかった‥、よね」

 昨日の昼間ここでマスターに“当たり散らした”後、冴子は家でも散々亮介を責め続けたという。
 その怒りが収まる気配は“微塵もなく”、その日の夜遅くまで延々“尾を引いていた”。

「警察だけはもう少し待ってくれって、それだけ言うのが精いっぱいだった――」
 亮介は俯いたままそうこぼした。

「夏目のこともきちんと話さなきゃいけないと思っても――とてもじゃないが冷静に話せる状況じゃなくて‥それに今の霧島の状態と、しかもそれをずっと隠していたことがバレたらと思うと‥‥あいつ血圧上がり過ぎてでぶっ倒れちまうんじゃないかな‥」

 冴子の“怒りメーター”は“ストッパー”がない。
 冴子は“際限なく”その感情が溢れるままに“体が限界になるまで使い倒す”――
 冴子が湧き出る怒りに任せて喚き、怒鳴り、泣くだけ泣いて、泣き崩れ、ついには放心状態になるまでの間、亮介はその“無限の激昂”に一晩中付き合わされたのだった。

 マスターはすっかり疲れ切っている亮介を前に溜息をついた。
「本当のことを言えないから何も言い返せないし‥つかそもそも言い返したらもっと大惨事になることは間違いないからそんなこと絶対しないけどね‥」


「マスター!注文お願いしましす!」

「‥はい!今伺います」

 マスターがオーダーを取りに向かおうとすると、亮介は決意したように席を立った。

「今夜時間くれる?作戦会議」
「うん、僕はいつでもいいよ」
「ありがとう、じゃあ、またあとで」

 
 亮介と入れ違いにもう一組お客さんがやって来た。

「こんにちはぁ!」
「いらっしゃいませ」
「今日のモーニングは何があるの?」
「Aセットがモッツアレラチーズとトマトのトースト、Bセットがパンケーキとスクランブルエッグ、Cセットが季節の野菜のキッシュです」
「わぁー!どれも美味しそう!」
「迷う~!!」
「全てサラダとスープが付いています、どうぞ、お席でお選びください」


「私Bセットで、アイスココア!」
「私はCセットにします!飲み物はミルクティー、ホットで!」

 朝の忙しい時間が始まった。



               ◆



 その日の夜、冴子がいつもの“納品”にやって来た。
 冴子は店に入るなり“央人は?”とマスターに聞いていた。

「自分の誕生日をすっぽかすなんて」
 冴子は文句を言いながらいつものように手際よく花を寄り分けていく。
 マーヤのことは一切口にしない。

 マスターは冴子を“極力刺激しないように”まるで“なんてことないような口調で”会話を繋いだ。

「年頃だものね、僕にも覚えがあるよ‥なんとなく一人になりたいっていうか、家族と距離を取りたい時期がね‥男の子だし、尚更じゃないかな‥自分一人でできることを、やってみたい衝動っていうのかな、そういう時期というのがあるんだよ‥」

 冴子はマスターの話をほとんど聞いていないようだった。
 店内の花を全て入れ替え終えると、あっという間に後片付けをしてテーブルを拭いた。

「私には理解できない」
 冴子は荷物をまとめて大きな袋を肩に下げた。
「今のこの現実が全部嘘だったらいいのに」

 そう言い残し、冴子は店を出て行った。


 
 それからしばらくして今度は亮介がやって来た。

 納戸のドアを静かに開け、眠る霧島の側まで足を進めると、その生気のない顔色に溜息をついた。

「今日で一週間か‥」

 安西先生に入院させたらどうかと言われたよ。

 マスターは霧島の顔を見つめながら、小さくこぼした。

「入院――」
 亮介は自分の言葉に動揺した。

「その方が安心だろうって‥このまま点滴だけでは央人の体力が落ちていくだけだって――ここから先は病院で適切な看護を受けた方がいいって――」

 白い腕に針を刺すと、先生は“そろそろ限界だ”とマスターに告げた。
ここでやれることにも限度がある。

「マスターも店やりながらじゃ大変だもんね‥確かに先生の言う通り、病院にいた方が安心かも――」
 けれどマスターは首を横に振った。

「僕はできればここで、僕の手の届くところでこの子を看たいんだ」


“私が責任を持って央人を看ます”


 桜の森病院の“名誉医院長”宛に紹介状を書くと言う安西先生に、マスターはそう言って断った。

 それはあの日、あの雨を背景に宣言した言葉にも似ていた。


“私が央人の後継人になります”


 マスターの“覚悟”は“とうの昔に”できていた。


 作戦会議は遅くまで続いた。

「とにかく入念に計画を練らないと」
 薄明りのカウンター席でそう意気込むと、亮介は“濃い目のコーヒー”を喉に流した。

 対策は隅々までぬかりなく、冴子の激怒と号泣は想定内として、重要なのはその後のケア―――。

「場所はここで、冴子が納品に来る日を狙って‥俺は美空をお義母さんに預けてから駆け付けるから」
「やっぱり僕から話そうか‥亮介君も知らなかったということにした方がまだ収まりがつくんじゃないかな」
「でもきっとすぐバレるよ。それで余計事態が悪化する気がする。」
「…あぁ、そうか‥それもそうだね…。」

 
 音のない明かりを落とした店内に、コーヒーの香りだけが漂っていた。


 今、一番聞きたい声が聴こえない。


 いつもの笑顔で、あの明るい声で、まるでこれが楽しい出来事のように

 当たり前みたいに

“大丈夫だよ”

 その言葉が聞きたい。

 マーヤがそう言うなら大丈夫だった。

 マーヤの笑顔があれば安心だった。


 今一番会いたい笑顔が、どこにもいない。


 そのドアから顔を出してくれたら

 二人の重たい表情を笑い飛ばしてくれたら


 まるでどうってことないように

 いつもみたいに笑ってくれたら


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