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個人的な体験

大江健三郎の著書、『芽むしり仔撃ち』『見る前に跳べ(短編集)』『個人的な体験』『死者の奢り・飼育(短編集)』、これらは1958-1964の間に発表された彼の初期時代代表作と言えるが、これら初期作品群の中で、どれを読めば手っ取り早いかと問われれば、私は『個人的な体験』と即答する。

何か文章を書く、仕事にてアイデアを絞り出す、そうした時の取っ掛かりとなるのは、やはりその個人の身の回りに起きた現実の事象となるだろう。本人が体験したこと接したこと、または人、そういう現実のものから出たものは、それが作り物、またはたとえ偽物であったとしても少なからず現実感が湧いてくる。

『個人的な体験』は大江健三郎の息子の誕生、そこから生まれたものだと本人も述べているが、そこには様々話が織り込まれ、これでもかと着色された世界であることはいうまでもない。但し、それらは1958-1964あたりで本人が実際に接したもの人からそのアイディアを得て描かれたものだろう。そう考えれば、誠に勝手ではあるが、この『個人的な体験』を初期時代1958-1964の集大成と決めつけてしまってよいのではないか。

上のような勝手な解釈が許されるならば、『個人的な体験』を読めば、大江健三郎の初期作品を一応押さえたといってよい。そして、例えば『芽むしり仔撃ち』のような歪なものは避けてしまってよいとなる。私の場合は大江健三郎を読むにあたり、誰にも助言を求めず、本屋にて上記した4冊を纏め買いするなどしてしまった。しかし、予め多少の情報を持って接していたなら、例えばこういう勝手な解釈に接していたなら、4冊も読まずに『個人的な体験』だけ。強いて加えるにしても、『見る前に跳べ(短編集)』あたりまで読めば十分、となっただろう。

ここまで私のこういう勝手な考えを一通り書いた訳だが、あくまでこれは私の至極勝手な見解である。従って大江健三郎をどうしても沢山読みたいという人は、流して沢山読んで欲しい。ということで、私の勝手な考えについてはここまでとして、本題の『個人的な体験』について少々書く。

この『個人的な体験』においても大江健三郎は相変わらずで一々描写がくどい、その点は初期時代の他作品と変わらない。それで作中の二日酔いにて吐くシーンなど物語において大して重要と感じられない部分が長々と綴られ、やはり退屈だとなる。しかし、この『個人的な体験』は他と比べると救いがある。他作品は読み終えて「何なんじゃ、これは」となる、そういうものが甚だ多いがこれはそうはならない。読み終えて少々清々しい、どこか気持ちが高揚する、若干ではあるがそういう感覚を抱かせられた。大江健三郎から思いもよらずにそういう感覚を受ける、何だか少し見直してしまうというか、多少好意も湧いた。

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