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学ぶとは


学ぶとは、概念理解と、概念砕きと、概念構成という三者の間の弁証法である
つまり、学ぶことには段階がある
「学ぶ心」のある人は、学びの連関性、全体性、相互作用性をいつもチラチラ感じることができる。

北本先生のおかげで私にも少しあるかな。外出自粛期間中に読んだ北本先生の私家版のエッセイ集?より。いつのまにか緊急事態宣言も明け、少しずついろんなことが動き始めてきました。
私も分散出社で、1日おきに出社。楽団の練習も今日から任意再開。きっとこれまでのようには戻らないのだろうけど、工夫してやっていくしかないよなーと。

私の心配事は、冷暖房のない家で在宅勤務ができるのか否か。すでに暑い。今年も猛暑だったら熱中症で倒れそう。出社させてほしい...


在宅&外出自粛中にやりたいこと色々あったんだけど、土日になると頭痛が重くて、昨日土曜日もずっと寝てて、1週間6日で生きている感じなので、あんまり達成できておらず。。。

とりあえず、5月に思っていたことをば。



9月入学の話がおそらく見送りとなった。
9月入学をここで持ち出すか!と驚いたものでした。とはいえ、弊社も教育メインなところはあるので、インパクトが大きく。注視はしていました。

そこで、北本先生の私家版のエッセイ集また読んで(何かあるたび読んでる)、思ったこと。


「学ぶ心」のある人は、学びの連関性、全体性、相互作用性をいつもチラチラ感じることができる。

学びの心がない人は一目散にハウツーを目がけて走るのだろう。
ここまで忍耐と時間がかかる。

教育改革は、日本の文部科学者の場合は単年度的であり、中長期的な展望をもっていない。教育は1年で効果が出るものではない。
今この瞬間の影響は今日明日に出るわけでない。彼らが次の進路選択のとき、大人になったときにでる。もっと先かもしれない。そこまでの責任を負っているとは到底思えない。

とかいう私は、がっつりゆとり世代であり、小学生の時から土曜日の登校を知らないし、円周率はかろうじて3.14で計算したけど。あとからゆとりゆとり、そしてさとり?と言われても。当時の政権と文部科学省と有識者がそうしたのだから。と思います。

「改革は抜本的にではなく、日常的に、その実務に携わっている人たちの改善努力を支援し、彼らの資質を伸ばしてやり、粘り強く時間をかけて、歩きながらでも少しずつ、教育の本質を信じて、成長発達する者の真面目な悩みや心情を受け止めながら、すぐに効果が現れなくてもその子の心に教育愛という種を蒔き続けられるように、その条件を整えること、これに尽きます。」

この北本先生の言葉を見ていると、やはり9月と安易にいうのではなく、今できる教育を現場の先生たちと考えていくことが得策だと思ってなりません。オンライン学習を進めた方がベターかと。
ある小学校の「PCを文房具に」という考え方には心打たれました。そういう時代なんだろうなと思います。

教育改革、教育改革というが、教育改革は目的ではない。目的は子どもたちの成長なはず。(政治家にとっては選挙で勝つことかもしれない)

そんなことをレンガ職人の話から思いました。



オンラインの弊害もある

かといって、経済の視点で見たとき

このオンライン教育つまりはユビキタス教育は教育を買い物化してしまう危険性もある。クレーマーが出たり。

学校で学ぶことの良さは、思ってもいないところに学びがあること。誰かの意見、休み時間の使い方、掃除当番、部活動など。いろんなところに学びが隠れていて、学ぶ心がある生徒はどこからともなく学んでいる。それが学校に集っている意味。それは理解しないといけない。教育学的には、ヒドゥンカリキュラムだったよね。
オンライン学習は、ログインしたら授業が始まる。自分で課題を始める。余白が生まれにくい。

最近よく読んでいる立教大学の中原先生のブログにも同様なことが書かれています。。

中原先生の指摘にあるように、ある種、このような余白をオンラインで作ることも今は求められているなと。


「良い学生とは、何も授業に全部出席している生徒のことではないし、文献がよく読めるだけの学生でもありません。今流行中のユビキタス教育の問題点を敏感に察知していて、それを道具として上手に使いながらも、その表層的な流行に飲み込まれない知的好奇心にあふれていて、何本かのアンテナの感度を上げて、ほんとうの学ぶ主体性を自力で培っている人のことを指します。」

こちらは北本先生のお言葉。
このような学生が現代社会にどれだけいたのだろうか。コロナ禍でどうなるのだろうか。そんな比較はできないが。データがないので。
より一層学生自身の学ぶ力が試されているというか。それまでの教育の在り方に評価が下されるというか。

そういえば、教育実習で受け持った子たち、学習塾で最後に受け持った中3の子たち、今年大学1年生の代ですね。ストレートならば。

このような学生を育てる心ある教育者が、働きやすい社会になってほしいなと。いつか自分も戻ってくるかもしれない現場に思いを馳せて。思うわけです。

この話が書かれたのは2009年のこと。今から10年も前。今を見透かしているような、分かっているかのようなお話で驚きました。



教わる側と教える側の相関

教える側は教わる側に合わせる。良い教育者こそ、相手に合わせようとする。到達目標があり、そこに向かっていく。教わる側のレベルが高ければ、より高いレベルを求めるし、より、高度なことを教える。教わる側のレベルが低い場合、下げる。

学習塾のアルバイトを始めてから、個別指導であることも相まって、教える側の心構えでいて、どうも合わせなきゃ合わせなきゃ、高いレベルも対応できるくらいでいなきゃ、どこまで掘り下げればいいんだとか考えていたもの。
いかに、相手に合わせるか。と考えていました。保護者面談でさえ、保護者のレベルに合わせて話し方は変えていました。

新入社員となると教わる身。私のレベルはどうなんだろう。自分で自分のレベル上げていかないと、伸びていけないなと。と色々考えていたら、なんのことかモチベーションが復活してきたので、「学びの心」を大事にしていきますという宣言でした。

ありがたいことに、ここにきて、まだあんまり褒められていない。褒められたいけど、褒めてほしいけど(笑)でも、根拠なく褒められるのは嫌だし、そういうところで良かった。転職すると同期もいないし、自分ってどのレベルなんだろうとつい可視化したくなるけど、もうそんな年齢でもないいんだろうなあ。

でも、期待してもらえてる。私としてはそれで充分(笑)

というのも、やっとこさ今年度これをお願いしますね。という面談があり、今年度のチームの目標とかKPIとかいろいろお話伺ったわけです。
私は担当大学は少ないけど、大きな案件を持つので、一つ一つ丁寧にやっていかないとならないなと思う。売り上げ規模もこれまでと違うので、まじか!となりますね。身の引き締まる思いです。
また新たなオンライン学習の標準化に向けたプロジェクトにも入ることになり。これが今までやりたかったことなのでうれしい!チームリーダーとメンバーが2人とも西日本の方なので、不安もありますが、東日本のチーム以外にも接点持てることは良いことだなと。

今年度、私がどういう役割を担っていて、どんな仕事をするのか。それが明確になったわけです。

思えば、こういうものなかったんです、前職。あなたは○○教室ね。くらい。それも電話かかってこなかったら異動なしだから、私言われたことないな(笑)
室長補佐時代は、これを目指してとか、室長1年目はこうなってくれとか、言われたことない。ちゃんとは。目標数値もエリア内で振り分けて、あとは自分で決めていたし。。。
それでもって、たとえば合宿は理科→数学→国語と振り回され。私の育成方針どうしたいの!?と心の中で怒ってた。別に私なんでもできるからいいですけど!と開き直ってた。
伸びるものも伸びないよなあ。周りの環境も、私のマインドも。

期待をかけてやることがどんなに重要か。

そういえば、昨日見たjuice=juiceのあーりーとモー娘。20のまーちゃんの自由気ままな対談(笑)でもあーりーが言っていたような。フェイクの歌割貰って、さゆきの間違いだと思ったらそうでなかったと。

役割を持たせることで成長もできる。

そんなことを考えた次第でした。