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自分の本性を探すために幼少期の記憶を掘ってみた

先日イラストレーターの川口真目さんとデザイナーの前田高志さんがスペースでこんなことを話していた。

「自分の幼少期、大人から何も言われてない頃に進んでやっていたことが自分の本性であり本質なんだよ」(意訳)

20分頃から話してる内容


自分の本性…ってなんだ?
ふと思った。
私は初対面の人と話すことが割と得意な方なので、最初は気さくな人だと思われがちだ。そしてコミュニティーでは常に明るい自分を振る舞う性質がある。
それは自分が楽しいからやっていることだし、無理をしているつもりもない。けど家に帰るとヘトヘトに疲れていて、今日あった嫌なことを話し、うじうじし、あげにくは家族に八つ当たりしている。
本当は繊細で内向的な内弁慶だ。

私がエッセイ漫画を描いているのも、対面では話せない自分の内面を形にして同じような悩みを抱える人に届けたいと思っている。

けど最近また悩み始めた。
自分のために描き始めた漫画も、たくさんの人に読んでほしいと思うと、どうしてもギャグに持っていったり、本心をオブラートに包んで描いてしまう。
エッセイ漫画は作家自身が体験を通じて思ったことを率直に書くからこそ、人の心を打つ。建前じゃない心の根っこの部分が、言葉と絵に乗るからその人の生き方が見えてくる。

なのに自分はウケたいと思ってしまう→本心よりちょっと良いことを言おうとした漫画を描く→嘘くさくなる→やっぱり違うな次は本心で描こうと思う→でもウケたい…(無限ループ)

なんだかそんなことを考えていると、自分の性根がどこにあるのかわからなくなってきた。そんな時このスペースを聞き、親に幼少期の自分のことを聞いてみようと思った。

私「ねえねえ私の小さい頃って何してた?」
母「あんたは絵ばかり描いとったよ〜」
私「それは幼稚園の頃でしょ?覚えてるもん。じゃあ絵を描く前は何が好きだったの?」
母「う〜ん…ままごとかなあ」

ままごと、と聞いてハッとした。私は遊びの中でもままごとがめちゃくちゃ好きだったことを思い出した。
ポポちゃんの人形、砂場でアイスクリーム屋さん、葉っぱで料理…

私がイラストレーションを学びたいと思って大学へ行ったけど、課題そっちのけで、演劇サークルにどっぷりだったことが納得できた。

次に自分のアルバムをみながら幼少期の記憶を思い出す。
幼稚園で列にならんでいる写真があって、みんなは笑ってるのに私だけ仏頂面だった。

思い出したのは親にわかってもらえない「不足感」だった。
幼稚園の友達にいやなことをされた、けど親同士が仲がいいから、言えなかった。仲がいいふりをしていた。
嫌なことをされたことを先生にもいった、けど先生は軽く受け流した。

嫌なことは、ほんのちいさなことだったかもしれないけど、周りの大人にちゃんと聞いてもらえなかった、理解されなかったとことが大きな傷になった。その時の私は、もっと伝える手段があればいいなと思ったのかもしれない。

本が好きでたくさん読んだ。物語が好きだった。
気持ちを伝える手紙交換も好きだった。
幼稚園では絵ばかり描いていて友達が少なかったから、小学校ではままごと遊びをした。ふざけていたら友達がたくさんできて嬉しかった。
家に帰ってから絵をずーっと描いていた。

人生で最初の頃の記憶。
覚えているのはまだ歩けない頃。
タオルケットに包まれて昼寝をしてたらテレビから音楽(松田聖子のあなたに逢いたくて)が聞こえてきて、テレビをみたいと思ってるのに見えない…というここでもやっぱり不足感。

エッセイ漫画を描いている理由がわかった気がした。
自分の奥底にある不足感を原動力に、悩みを漫画に落とし込んでギャグのエッセンスを足してたくさんの人に届ける。
人生で、できなかったこと、言えなかったこと、わかってもらえなかったこと…考えたらいくつもある。
その一方で、できなかったから良かったこともある。
見えない葛藤に光を当てていくことで、過去の自分を救ってあげられる。

幼少期の自分を掘り下げていったら、自分が描くべき漫画が少しだけ見えてきた。もっと掘り下げみたら何か転がってるかも。

素敵な機会をくださった、川口さん、前田さんありがとうございました〜。





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