京急線衝突事故に遭遇した話

最初に書いておきたいのは私に怪我はなかったということと、
京急の対応は素晴らしかったということ。
京急の運転手に対して責任を誘導する報道に対しては強い憤りを感じた。
事故に伴い鍵を紛失し、京急に連絡をしたがとても親切に対応していただいたし、死傷者があの規模で留まったことは京急の日頃の安全への取り組みの現れだと思っている。

9月5日の京急の事故が起きた時、私は前から二両目の車両にいた。
現場の立会いに向かう途中だった。

その日の朝、7月に私も加わって取り組んでいたプロポの当選の
連絡を受け取った。
とても嬉しく、プロポに参加した社内のチームでひとしきり盛り上がった。
勤めている設計事務所では、コンペやプロポに参加することは珍しく、久しぶりのことだった。

午後から三浦市での現場の立会いがあるため、私は浮かれた気持ちを抱えたまま、ひとり品川に向かった。
とても暑い日だった。手には現場事務所に置いておく構造の適判の書類一式を持っていた。
キングファイル4冊分の書類を持つ手は痛み出し、早く京急に乗ってゆっくりしたくなっていた。

私は現場に行くときは、いつも前から一両目か二両目に乗っている。
品川に着いて階段を足早に上り、京急線へ急いだ。
発車ベルが鳴っていて、一両目までは辿りつかなそうだ。
私は三両目に乗ろうとした。よく見るとそれは弱冷房車だった。
日差しに汗をかき、重い荷物を持っていた私はもう少し粘り、空調の効いた二両目に駆け込んで空いている座席に腰を下ろした。

ゆっくり電車は走り出し、車内も涼しくやがて汗も引いた。私はイヤホンを着けて音楽を聴き始めた。
京急の快特電車はぐんぐん南へ進む。
イヤホンでキリンジを聴いていた。
川崎を出て横浜までぐんぐん進んでいく。
ぼんやり景色を眺めていた。

一瞬のことだった。
聞いたことのない音がイヤホン越しに聞こえて、窓の外では電柱のようなものが引きずられていた。
一番端の席に座っていた私は手摺に頭を軽く打ち付けていたはずだ。
というのも、そのあたりのことはよく覚えていない。音と衝撃を全身で感じた。
外れたイヤホンからキリンジの「ダンボールの宮殿」が、しゃかしゃかと聴こえていたのを覚えている。

全ての動きが止まってから、恐る恐る車内の人たちは立上りはじめた。
誰かが「脱線だ」と言った。
「後ろへ行きましょう」また誰かが言った。

窓の後方で駅と踏切が見えた。その辺りに人だかりができていて、手を大きく回しこっちに逃げろと伝えているのが分かった。
正直その時私は走りだしたい衝動に駆られた。
「他の電車がこのまま突っ込んでくるかもしれない」「爆発するかもしれない」という不安が全身に広がった。
乗り合わせていた人たちは冷静だった。もしくは冷静に見えた。
みんなと一緒にゆっくりと後方の三両目に移動したが、三両目では窓ガラスが割れてきらきらと床に散らばっていた。
ガラスの破片はゴロゴロとしていて、靴で踏みしめるとゴリゴリとした感触が伝わってくる。
やっとこのあたりで電車が傾いていることに気づいた。

三両目のドアを誰かが空けてそこから少しずつ線路に降りていった。
高さがそれなりにあるのでお年寄りが降りる時に下で誰かが手伝っていたのをよく覚えている。
私は何も手伝っていない。
私も線路に降りた。その時に胸ポケットに入れていたiPhoneとたばこが落ちた。
拾うときにみかんが香った。

みかんの軟らかさとかたい線路の石をゆっくり踏みしめて踏切のわきから道路に出た。
乗っていた電車の方向を振り返ると火と煙が上がっているのが見えた。

スーパーマーケットのわきで呼吸を落ち着かせ、会社に電話をかけた。
「京急で事故が起きて現場に行けません、私に怪我はありません、また連絡します。」そんなことを言った。
どうすればよいのかわからないのでみんなが歩いて行くほうについていくいくことにした
どうやら京急の職員らしき人が先導しているようだった。

歩きながら現場事務所にも電話をかけた。
サイレンの音が響く中、事故の旨を伝えていると先頭から
「爆発するかもしれないので引き返してください!」という声が聞こえてきて、線路近くを歩いていた私たちは
大きな通りの方に、電車から離れる方に移動した。
電話を切って、適判の書類を電車に置いてきてしまった、と一瞬思ったけれどちゃんと手に持っていた。

どうやら京急神奈川新町駅の近くにJR東神奈川駅があり、みんなそちらへ歩いていることが分かった。
東神奈川駅で京浜東北線に乗り、品川へ戻ろうとした。電車内で楽しそうに話をしている人たちにまぎれ、私はひとり呆然と外を眺めていた。

当時のことをできるだけありのまま書いた。

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