見出し画像

元ひきこもり。開運のため徳を積む。

私は元ひきこもり。

三十を超えた時点では非正規社員の身でした。
このとき人生はどう考えてもうまくいっているように思えませんでした。

二十代の頃はまだ余裕もあったのですが、三十代になってくるとなりふり構っていられません。

このままではうだつが上がらないまま人生が終わってしまう・・。そんな可能性が見えていました。

子供の頃の私は自分の人生は素晴らしいものになり、自分は特別な存在だと思っていました。

それが単なる幻想になりそうです。ゾッとしてきました。

自分の人生が少しでも良くなるならばと、何でも試してやろうと思いました。

そこで本を片っ端から読んでいき、お金がかからないことなら何でも試し始めてみました。それが、この三十代前半の時期でした。

その中の一つが「徳を積む」なのです。

徳を積むことで運が回ってくるらしいのです。そういえば昔、このような経験がありました。

四国のお遍路にて

18歳の頃に四国に行って八十八ヶ所巡りを行いました。

高知県の西側。とある岬を私は歩いていました。

すると傍を駆け抜けていった車から、私に向かって缶が投げつけられたのです。足元を転がるジュースの缶。たまたまリュックの中にビニール袋が入っていました。

私は投げつけられた缶をビニール袋に入れました。そして周囲を見回すと歩道外に多くの空き缶が転がっていたことに気付きました。

特に何かを考えていたわけではありませんが、ビニール袋もあることだし、それらの缶を拾って歩いたのです。

すぐにビニール袋は空き缶でパンパンになりました。

ビニール袋の口を締めて歩き続けると岬の先に札所がありました。
そこのお寺にあったゴミ箱に、空き缶の入った袋は捨てました。

時刻はお昼を過ぎていました。
空腹を感じ始める時間帯です。

巡礼道の道すがら。飲食店はなかったしコンビニもない。何もない。あるのは景色だけ・・。

善行や綺麗な景色はそれは美しいものだが腹を満たしてくれません。腹が減っては戦はできぬという格言があるではないですか。

ということで札所内を散策して飲食店を探しました。
札所の規模が大きかったので、期待していたのですが、食べ物屋さんは全店閉店。

空腹は頂点を迎えていたので、次の札所に歩き始める気力がすでに無かった私はその場で座り込んでしまったのです。一度座ってしまうと立ち上がることは困難です。

もうダメだ・・。

すると巡礼には場違いな呑気な音楽が聴こえてきました。

頭を上げると移動式のパン屋さんが目の前にやってきて、座り込む私の前に停車したのです。

パン屋・・。嘘みたい・・。

札所にはほとんど人がおらず閑散しており、そこには私しかいません。

パン屋さんは私のために来てくれたのか?そんな風に勘違いしてもおかしくないような展開でした。

いうまでもなく私はすぐにパンに飛びつき空腹を満たしました。

空き缶を拾ったから、それを見ていた仏様がパンを届けてくれたものと解釈しました。

善行を積むと運が良くなるという発想の回路が繋がった瞬間です。

氏神様の神社で善行を積む

この経験は私の中ですごく大きなことだったので、善行を積むと運が開けるのはあながち的外れではないと思い込みました。

というわけで、ひきこもり暇人時代に私は自宅近くの氏神様が祀られている神社に草むしりとゴミ拾いに出かけました。

軍手と45リットルのビニール袋を3枚ほど持って、昼間の人通りの少ない時間に神社へと向かいました。

神社に向かう道すがらに落ちていたビニール片やタバコなどを拾いながら歩きました。

ゴミ拾いを意識して歩くと、案外ゴミが少ないことに気付きます。
日本人はマナーが良いようです。
ゴミが落ちていると宝の山を見つけたような気分になる程です。

徳について私が着目したのは「陰徳」でした。

陰徳とは人が見ていないところで、コソッと善行を積むということで、決してひけらかしてはいけないものなのです。

寄付をしてもそれを人に言ってはいけないし、徳を積んでいる場面を人に見られてもいけないそうなのです。見られたら積んだものが台無しになるのです。

氏神様が祀られている神社に到着しました。
改めて見ると、この神社はこじんまりとした丘の上に建立されており、周囲を木々が生い茂っていました。

その中でひっそりと隠れるように建てられた神社。

鳥居を潜ると急な石階段が続きます。その鳥居をよく見ると「呪」やら「恨」やら不吉な文字が散りばめられていました。

私は早速ゴミ拾いを始めました。境内にはゴミが落ちていなかったので、鳥居周辺に生い茂った雑草を引っこ抜くことにしました。

45リットルのビニール袋は結構な容量です。しかし雑草もなかなかの大きさであり、1時間もするとあっという間に全ての袋がいっぱいになりました。

きっと氏神様も喜んでくれたはずです。

重くなった45リットルのビニール袋を担いで、御近所さんの目を気にしながら家路に着きました。


何となくその日の夕方あたりから気持ちの悪さがありました。

そしてその日の晩に発熱。高熱にうなされたのです。

祟りだ・・・これは・・・・。

木々が生い茂ってひっそりと佇む神社は、恥ずかしいとか人見知りとかではなく、触れられたくないから隠れていただけです。だから草むしりはいらないお世話で放っておいて欲しかったのです。きっと、そうだ・・。

そして私は二度と神社の草むしりなどすまいと思ったのでした。

ゴミ拾い

ゴミ拾いは運拾いらしいのです。

氏神様の神社ではたまたま高熱が出ちゃいましたが、ゴミ拾いで運が良くなればやはり安いものです。

今でも私はゴミ拾いを続けています。

人様の捨てたマスクなども拾っているのですが、これでもし私がコロナに感染したら、徳を積んでも運は付いてこないということです。そのときはきっぱりとゴミ拾いを引退したいと思います(見返りしか考えていないのは根本的に間違っているのか・・?)。

次はパン屋が出るか、高熱でうなされるか・・楽しみではあります。

※ちなみにゴミ拾いの記事を書いたら、人の目に触れるということになるのでしょうか?陰徳でなくなるのかは不明・・。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?