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リズミカルな生

 山に囲まれ海はすぐそこ、そんな場所へおとずれた。古い家屋がならぶ道、目線を横へずらせば小川がのびている。目的地はとくに決めていなかったので流れにそってゆらゆら歩いていると、奥に佇んでいたのは寺院。見上げる山門は、ひっそりと、しかしたしかな存在感でかまえている。門前には「時宗」の文字があった。ひどく気になる。

 足を踏み入れた。とたん不可思議なこころもちになった。「自分」がぐんと拡張されたような、体という枠から流れ出ていくような、まわりの緑と混ざりあうような。木々にも、青葉にも、石仏にも、墓碑にも、本堂にも、すべてに輪郭があり目で見れば「別々」なのだが、感じとれる気配は「等しく」思われた。お地蔵さんや千手観音、岩崖のくぼみに座している阿弥陀様。みながそろって静かに笑っている。落ち着くのに、愉快なのだ。

 そんな可笑しな体感を忘れられず、時宗のルーツをたどった。一遍上人に出くわす。目に入ったのは「踊り念仏」の文字。なんか楽しそう、やっぱり気になる。そこで『死してなお踊れ 一遍上人伝』を手に取った。著者の文体がさいこうで、あっという間に読みきった。

……いっさいのことをすててしまって、ただ念仏をとなえていればいい。それが阿弥陀仏の本願にもっともかなっているのだ。
 そうやって、たかく、たかく、声をあげて念仏をとなえていれば、仏もなく我もなく、どんな区別もなくなってしまう。……山河草木、ふく風、たつ波の音さえも、念仏でないものはない。人間だけが、阿弥陀仏の本願の恩恵をあずかっているわけじゃないのである。

『死してなお踊れ 一遍上人伝』p67

 改めて表紙をみた。『遊行上人縁起絵』の一場面らしい。何人もの僧が手を合わせながら恍惚としたカオで口をあけ、うたっている。これを書いている今、カフェの窓ぎわにいるのだが、ふと顔をあげて外をみると、葉っぱがヨコにタテにゆさゆさと揺れている。なるほど、風も念仏。吹けばみんな踊りだす……。

 そういえばこの前、コジコジの第7話「手紙を書こう!!」の巻を読みなおした。お母さんお父さんに向けて手紙を届けようとするコジコジ。しかし、出し方も住所も存在も分からない。書いた手紙は風にとばされてしまう。そのとき、

手紙ありがとう
おとうさんとおかあさんは
いつもコジコジと一緒にいます
水の中にも
土の中にも
木の中にも
草の中にも
風の中にも
音の中にも
空の中にも
光と闇の中にも…
それはあなたは宇宙の子だから…

『COJI-COJI  新装再編版【1】』p118

 万物からの返事。輪郭はあれど存在に優劣はなく、みな等しく声をもつ。うたっている。私は今、まはだきをしている。呼吸をしている。隣に座っている人も、道を歩いている人も、木も葉っぱも、地面の草も土も。あるがままのテンポで楽しく。こだわりもしがらみも全部捨てた先で、きこえてくる自然のリズムに、いっさいをゆだねる。そうすることではじめて、愉快に命をまっとうできるのかもしれない。

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