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フラクタル・カフェ

 おのおのが本を開いたりペンを走らせたりしている。まわりに人はいるが、たがいに干渉せず、自分の時間に依って過ごしている。紙をめくる音、食器が重なる音、コーヒーを淹れる音。大きすぎないBGMは、それらをじゃましないから心地いい。もし座っている場所が窓ぎわならば、静かに人波をたんのうできる。ふわっとこおばしくてさわやかな香りがした。こうやってあまたな要素を五感でうけとると、カフェという空間は、思いのほか複雑だと気づく。マクロでみれば、シンプルで秩序だっているが。

 例えば人体。そのしくみを考えると目がまわるほどの確率で、私は生かされていると思う。器官それぞれは融合していないのに、1人のなかにおさまって、バランスを保ちながら、動いている。冷静に考えたら、心臓が今もずっと、意思とは関係なしに拍動してるの、すごいな。自分のなかに自分ではない生き物がべっこに居る感じ。そうなると「1人」ってどう定義されるのだろう? 人格だって、昨日と今日で同じ「1人」といえるのだろうか?

 いつかみた大きな両界曼荼羅図が忘れられない。はなれてみると整頓された構図、ちかくでみると仏仏仏仏仏仏仏……思わず後ずさりしてまた眺めると、なんともきっちりしている。森をみて木をみて森をみて木をみて、そう繰り返していると、自分はいったいどこにいるだれなのか、分からなくなってしまった。私の中にはたくさんの私がいて、社会の中にはたくさん社会があって、空間の中にはたくさんの空間がある。輪郭がぼやけてぞっとした、ぞっとしたけど、これが「自由」なんだろうなって思った。だから私はカフェが大好きです。

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