エゴ

すべての人はエゴの元生きている。

いつだったかのCreepy Nutsのオールナイトニッポン0でDJ松永がこのようなニュアンスのことを言っていた気がする。いや、言っていたはずだ。言っていてほしい。

少なくとも僕にはそう思わせてくれる発言があり、この発言は僕を救ってくれた。(万が一、夢でこんなことが起きていて、現実だと思っているならごめんなさい。)

救ってくれたこの言葉に、僕は今苦しめられている。救ってくれた当時、僕は自分がマッドサイエンティストなのではないかと悩んでいた。僕は大学院生で医学に近い生物学を専攻している。周りの学生たちは、「こんな研究をしてこの病気で苦しんでいる人を救いたい。」だとか、「人工臓器作って病気の人が少しでも生きやすくなってもらいたい」とか、社会貢献まっしぐらな目標をもって研究に励んでいる。一方僕は、入り口こそ「治療法の確立されていない病気を治したい」という思いで今の研究分野に飛び込んできた。

しかし、今は「治したい」と思わなくなってしまった。ただ、モチベーションが低下しているだけであってほしかった。実際は、モチベーションは落ちていなかったし、なんなら上がっていた。「治したい」よりも「知りたい」が勝ってしまったのだ。「人間や動物の体ってこんなにいろんなタンパク質が連携して動いているんだ!」と感嘆してしまったのだ。僕は、自分の体の中身が、仕組みが分かっていないのに、世の中がああだこうだなんて言えないと思ってしまった。

それでも、研究費をもらうには社会にどう貢献するのか説明しないといけない。「ただ知りたいんです」の熱量だけではウン百万もお金は出してくれない。社会に貢献しない研究には価値がないのかもしれないとふさぎ込んでいた。

そんな時に、松永さんが冒頭の言葉をくれた。アーティストは別に必要ない。誰かに曲が届いたらうれしいけど、それよりも曲を作りたいから作っているだけだ。と。それは、他の職業の人もそうなんだ。と。高尚な目標を持つ人も、それをやりたいがためにやっていて、社会的に貢献できるかどうかは後付けなんだ。と。


そこからは、吹っ切れた。僕の研究が応用に応用を重ねて誰かが喜んでくれるからやる意味があるのだ。と思えるようになった。


そう思っていたのに、思わぬ壁にぶつかった。就活だ。奴らは高尚な目標とゴールを求めてくる。研究の社会的意義を見出すことすら困難だったのに、どうやって社会貢献しようか教えてくれなんて無理な話だ。その会社に入りたい理由なんてやりたいことがあるからの一点勝負だ。それ以上でも以下でもない。


会社の採用担当者は我々の熱量を正面から受け止めたいと言う。でも、そんなの嘘だ。いかに社会にフィットした爽やかな良いヤツであるかをコミュニケーション能力で取り繕えるかを見られているだけだ。みんなエゴにまみれているのに?社会の為にみたいなツラして生きるのは苦じゃないのだろうか?


こんな文句を垂れ流していたら、エゴを通すために外面を整えるのが社会で生きることなのかとうっすら思えてきた。


一歩踏み出す理由は、やりたいから。



これだけはブラさないように真っ当な人間のローブを着て世の中に紛れて生きていこうか。


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