「お前なんか無価値だ」と批判されるヒトの価値とアテンション経済

3日ほど前の記事ですが、産経ニュースによると、被害者が死亡するという痛ましい事故につながった、東名あおり運転の被告に対してなされた取材依頼に対して、けしからん返事が書面で返ってきたとのことです。

・取材したいなら、30万円からの報酬が必要だ
・人のことをタダでネタにできると思うな

たしかに一見腹立たしいのですが、あえて申し上げると、ここにはいたってまともなことが言われているように思います。

ネット上ではこの被告に対して(まあ当然ですが)「クズだ」「お前には一銭の価値もない」みたいなコメントがたくさん投げかけられています。でも、本当に被告は無価値なのでしょうか?

被告の価値

コメント主は、この記事に興味を持ち、読むために1〜2クリックを捧げ、それらにかかる時間(すなわち人生)を費やしています。それを前提としてメディア側も記事を書いているし、読者にリーチせんと欲する広告も乗っかってきます。「経済的には」明らかな価値があるようです。

そもそもメディアは商品価値があるから取材したいわけで、売上見込の価値に見合った仕入れコストを支払うのは合理的です。しかもこの商品は代替品がなく、値付けについては売り手の交渉力が強くて当然。やっぱり被告の主張は正論ですね。

「それは価値の定義の問題(倫理的な価値 or 経済的な価値)だ!詭弁じゃないか!」と言われれればそのとおりなんですが、上述のような記事へのコメントについて、内容が誤っていると指摘したいわけではなく、どちらかというと問題設定が誤っていると言いたいのです。

だって、倫理的な善悪の観点からの議論はすでに概ね結論出てるし、議論するとしても主観の世界だし、論点としてはどうでもいいんじゃないでしょうか。それよりも経済的価値のほうがよっぽど重要な論点なのに、善悪評価に気を取られて、というか両者を混同して後者について語らない(語れない)のは愚かだと思うのです。

いくら坊主が憎くても罪のない袈裟まで悪く言うのは不条理。もしかしたら袈裟にものすごい価値がある事実を見逃してしまうかもしれない。分解して考えようよ。と言ってます。

アテンション・エコノミー

個人へのアテンション、つまり注目度が資本となり、将来の稼ぎを生み出すという考え方があります。これはあらゆる情報サービスの供給が過剰となり、消費者の限られた時間というパイを奪い合うために各プレイヤーが消耗戦を繰り広げている今日、強く実感できる概念です。

具体的には、インフルエンサーと呼ばれるアテンションの高い人は、消費者の時間をなにかに投じさせる能力を持っているといえ、その価値はどんどん高くなっています。個人のアテンションがメディアの役割を担う時代になってきているのでしょう。また、価値が高いのであれば、スポンサーがつくなり、セミナーを開けるなり探せばいくらでも現金化の方法はありますし、たとえ現金化したとても時間等を切り売りしているわけではなく、アテンションという積み上げた資産がキャッシュを生むわけです。

ここで重要なのは、前にも述べたように、人のアテンション的価値は人の倫理的価値とは互いに独立している点です。つまり、被告であってもアテンションを稼げるのであれば経済的価値が発生しちゃう。炎上商法という言葉があるように、内容がネガティブなものでも炎上=アテンション急増イベントが発生すれば、経済価値はあがるのです。

アテンション至上主義の制御装置

最初の被告の話にもどると、実際このnoteでも事例としてとりあげたりなんかしてるわけですし、繰り返しになりますがこの人には価値があります。でもこれって、注目を集めたもの勝ちであり、そのためには倫理的にみてどうであれ非常識さが有効であると考えられる以上、非倫理的な行為の誘因になるのではないかという不安を感じます。

でも、じゃあ今までは稼ぐことと倫理的であることって一致してましたっけ?わざわざ説明はしませんが、全然そんなことないですよね。そして、アテンション資本制度では、むしろこれまでよりも有効に悪徳商売を制御する装置が機能すると考えることもできます。だってアテンションが集まるのだから、当然です。

つまり、仮に短期的な儲けにつながったとしても、アテンションを稼ぎつつ悪いこと(賛否両論ではなく明確に世間から否定されること)をすると嫌われるし、場合によっては犯罪にもなるし、そうなることは経済的損失だけ考えても非合理的です。そもそも通常の人間はそんな孤独に耐えられません。

また、有名税という言葉があるように、アテンションで荒稼ぎする人はたとえ善行をしている場合でさえ、叩かれたりなんだりといったリスクがあります。これらはアテンションのブレーキとしてはたらくと思います。倫理の欠如したアテンションは、ハイコストなんです。

というわけで、アテンション・エコノミーは概ね世界を(これまでよりも)よくする方向へはたらくものであると、希望的観測を含めて考えている次第であります。

ちなみに、被告には経済的価値があると述べましたが、これはアテンションという要素を分解したうえで評価したものです。この罪を犯したというイベントの価値をトータルでみると経済的損失のほうが大きいので、経済合理性の観点からみても価値はマイナスかと思います。

以上

今後も記事の有料化は考えておりませんので、もし本noteを相当気に入っていただけました場合には、誠に恐縮ではございますが投げ銭などいただけると執筆継続の可能性が高まりますので、何卒よろしくお願い申し上げます。