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【紀行】福島浜通りの旅〜復興とは、「忘れない」ことなのか?請戸小学校編〜

5年前に福島を訪れた時はまだ常磐線が冨岡駅までしか繋がっておらず、隣の夜ノ森駅から先は立ち入ることができなかった。

そこから月日が流れ、常磐線も全線開通した今の福島を見ようと思い、常磐線をひたすら北上する旅を決行した。

奇跡の学校「震災遺構・浪江町立請戸小学校」
なぜ全員が無事避難できたのか?

福島県浪江町に、東日本大震災による地震・津波の被害を大きく受けたにも関わらず、生徒・教員を含め全員が無事避難し、一人も犠牲者を出さなかったことで知られる「浪江町立請戸小学校」がある。
今では安全面のみ確保された状態で、ほぼ当時のまま遺構として保存されている。


請戸小学校

請戸小学校から1km以上陸側へ進んだところに、大平山という小高い山がある。
1km強、上り坂。
大人でもそこそこ疲れるから、低学年の子どもにとっては大変な移動だ。
請戸小の子どもたちは震災当日、自ら先生に提案し、この大平山を目指して避難した結果、全員助かったという。
当時の避難マニュアルは、地震が起きた際は全員校庭に集合。
津波が来そうになったら屋上へ避難。
教員たちがマニュアル通りに動く中、只事ではないと察した高学年の生徒たちが、自ら大平山への避難を提案し、率先して教員から低学年の子どもたちまでを、大平山へ導いたという。

今の私だったら同じ判断をできただろうか?

もちろん高学年の子どもたちはすごい。
若干11歳、12歳の若さで自身も不安に押しつぶされそうな中、冷静に状況を見極めて全校生徒の命を救った。

ただ、この話が語り継がれるすごさは教員側にもあると、今の私は感じる。
請戸小の中を歩きながら、「このクラスの担任の先生は何歳くらいの人だったのかな」とか、「私がもしもこの学校の先生だったら…」ということを考えていた。

きっと当時の請戸小にも今の私と同じ、24歳、社会人3年目、それくらいの若手の先生がいたはずだ。
大地震・大津波を経験したこともない中、毎年防災の日に避難訓練をマニュアル通りにこなすことが一般的ではないだろうか。
もちろん、そうではない真面目な教職員の方も世間には多くいらっしゃる。ただ、私がもし教員だったら、正直「ルーティン化」した訓練を行ってしまっていたかもしれない。
”未曾有”で”想定外”の災害が発生し、先生方も冷静ではなかったであろう状況下において、高学年の生徒の提案に耳を傾け、最終的な判断を下した請戸小の先生方に、人として、そしていち社会人として尊敬の念に堪えない
きっと私だったら、マニュアルに従ってしまっていたと思う。

かつての教師や友人に向けたメッセージは黒板に

まだ一時帰宅しかできなかった時、六年生の教室の黒板に書かれた数多くのメッセージ。

https://namie-ukedo.com/guide/
多くの方から励ましのメッセージが寄せられた黒板

個人の名前が散見されることからわかる通り、ここで小学校までの生活を送っていた子どもたちが、ここで教鞭をとっていた先生たちが、かつての先生に、かつての教え子に、そしてかつての友人に届くことを信じてしたためたものであることを物語っている。

「遺構」ってなんだろう?

「遺構」として残し、後世にそこで起きた自然災害の恐ろしさを現物によって語り継いでいく。それも「忘れない」ための一つの手段だ。

学生時代に岩手県宮古市を訪れた際に、「あなたがここで見聞きしたことを、どうか周りの人に話して。経験していなくとも、直接聞いたこと、見たことを伝える努力をしてみて。」と言われたことがある。

分からなかった。いや、厳密に言うと、言いたいことは理解できても、どうすればいいのか分からなかった。
メディアでは3月11日近辺でしか報道されなくなった震災関連の情報。
あの災害の怖さを、そこから得た教訓を、決して忘れてはいけないと思う。
ただ、一人の人間として、目を背けたくなる悲しみや絶望、忘れないと前を向いて生きていけない程の苦しみがあることも想像はできる。(もちろん想像の範疇でしかない)

請戸小が「震災遺構」として残されたことには意味があると思う。
実際に見て、学ぶことは多かった。人間の温かさと強さも感じた。今の自分の不甲斐なさに悲しくなった。どうか人を救える人間になりたいと願った。
けれど、きっとみんながそう思うわけじゃない。
きっとそうだと思う。
私の中ではまだ結論が出せない。宙ぶらりんな状態のまま、あの日から13年経とうとしている。


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