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プロレス観戦歴20年!僕がおすすめするプロレスラーBEST5!

プロレス、それは人生を6×6mのリングの中に濃縮した、最高のスポーツエンターテイメント。
誰かが言っていました。
「プロレスを観たことのない人は、人生の半分を損しているぜ」と。

こんばんは!プロレスが大好きで、プロレスと結婚したいくらいに強い愛情を持った男。フリーライターの平敷篤です!
本日は、プロレス観戦歴20年の僕が選出する、おすすめのプロレスラーBEST5を紹介したいと思います。

冒頭に書いた通り、プロレスは6×6mというリングの上で繰り広げられる人生ドラマ。リングに上がるレスラーの生き様を垣間見ることができます。

「プロレスって怖そう」「プロレス観たことない」
そんなあなたに、ぜひ観てもらいたいレスラーを独断と偏見で選んでみました!プロレスに少しでも興味を持っていただければ幸いです。

それではスタートです!

第5位 棚橋弘至

「新日本プロレス、100年に1人の逸材、棚橋弘至です!」
誰もが一度はテレビで見かけたことがある現役のプロレスラーと言えば、棚橋弘至選手ではないでしょうか?

「プロレスラー=怖い人」というイメージを打ち破ったのは、棚橋選手ではないかと僕は考えています。
デビュー間もないヤングライオンと呼ばれている時期の棚橋選手は、短髪で黒髪、ガッシリした体格で黒パンツ姿。まさに新日本プロレスの若手!という格好をしていました。
2000年からの長い欠場期間を経て、2001年に復帰。その際に、コスチューム変更とともに髪型も長髪に。
新日本プロレスが掲げていたストロングスタイルというよりは、個性的な動きや派手な技を使う、いわゆる「アメリカンプロレス」寄りだったこともあり、棚橋選手には根強いアンチもついてしまうほどでした。
その頃は、総合格闘技などの隆盛もあり、プロレス人気も下落。どの会場も空席が目立つなど、苦しい時代を迎えていました。
それでも、棚橋選手はプロレスを諦めません。全国各地を飛び回り、プロモーションに励む日々。休む暇もないほど、テレビ、ラジオへの出演を行います。
プロレスを知ってもらいたい、プロレスが開催されていることを知ってもらいたい、プロレスは楽しいということを知ってもらいたい。
プロレスを愛する棚橋選手だからこそ、出来たことではないかと思います。

そして2006年、初めてIWGPヘビー級王座を戴冠した時に生まれた名言が、今でも棚橋選手の代名詞となっている「愛してま〜す!」です。
メインイベントを勝利で飾った後のマイクパフォーマンス。その締めに、拳を築き上げながら叫ぶこの言葉。
「愛してま〜す!」は、感謝の気持ちを最大限に伝えるために使っているそうで、「ありがとう」の最上級だと表現しています。

太陽のように明るい棚橋選手。新日本プロレスの頂点、IWGPヘビー級のベルトを巻くこと8回。最多戴冠記録を持つ、まさに新日本プロレスを代表するプロレスラーです。

すでにベテランの域に入る46歳となった今でも、新日本プロレスの頂点を目指して戦い続ける棚橋弘至選手が5位でした!

続いては4位の発表です!

第4位 天龍源一郎

滑舌が悪くて何を言っているか聞き取れない。そんな話題で取り上げられることが多いプロレスラー。
しかし、プロレスラーとしては日本を代表するトップ・オブ・トップと言っても過言ではないでしょう。
それが、天龍源一郎さんです。

僕はプロレスを20年見続けてきましたが、天龍さんの現役バリバリの頃を知りません。新日本プロレスワールドなど、サブスクリプションで当時の試合映像を観るのですが、ゴツゴツとしたファイトは、昭和のプロレスファン、そして、どつき合いが好きなプロレスファンにはたまらないものだと思います。

元々は大相撲力士として土俵に上がっていた天龍さんでしたが、自身が所属していた部屋の後継問題に巻き込まれ廃業。ジャイアント馬場さんが率いる全日本プロレスに入団します。
相撲時代に「プロレスごっこ」をしていたことから、少しはやれるだろうと考えていた天龍さん。
しかし、全日本プロレスの道場で、ジャンボ鶴田さんから初めて受けたボディスラムの衝撃に、その自信は砕かれたと言います。

アメリカでデビュー戦を行い、日本に帰ってきてビル・ロビンソンのパートナーとしてタッグを結成。ジャイアント馬場・ジャンボ鶴田組が持つインターナショナル・タッグ王座に挑戦したことが転機に。
この試合を契機に、天龍さんは「全日本プロレス第3の男」「風雲昇り龍」と呼ばれ、頭角を現していったのです。

その後は、さまざまな団体を渡り歩き、相手のどんな技も受け切るファイトスタイルで戦い続けます。まさに「受けの美学」を貫き通したのです。
引退試合の相手は、当時、新日本プロレスの頂点に君臨していたオカダ・カズチカ。徹底的に技を受け、散っていった姿は会場に集まった観客の涙を誘いました。そして「いやぁ、負けた〜!」と絶叫した姿に、清々しさを感じさせてくれたのです。

現在、闘病中の天龍さん。猪木、馬場という日本プロレス界の2大巨頭からピンフォールを奪った強さで、必ず元気になってくれると信じています。
まだまだ、「腹いっぱいにはならないでください!」と多くのプロレスファンが願っていることでしょう。

さあ、次は第3位です!

第3位 内藤哲也

「棚橋になれなかった男」と呼ばれていた男は、自分のやりたいプロレスをするようになってからは「制御不能のカリスマ」として一気に新日本プロレスの頂点へ駆け上がりました。
会社に対して正論を吐く姿が、多くのビジネスパーソンの心に響いたのでしょう。本来、王座がかかった大事な試合に他の選手が乱入するのを嫌うはずのプロレスファンが、乱入した後に王座を奪取した姿に大喝采を送ったほどです。

その男の名前は内藤哲也。新日本プロレス内でも人気のユニット「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」を率いるプロレスラーです。
棚橋弘至選手に憧れ新日本プロレスに入団。高橋裕二郎選手と共に、「NO LIMIT(ノーリミット)」というタッグを結成。ジュニアヘビー級、ヘビー級のベルトを巻くなど活躍を果たします。
決裂後は、ヒール(悪役)になったこともありましたが、主にベビーフェイス(善玉)として試合を行いました。

しかし、内藤選手といえば「怪我」を連想してしまうほど怪我に泣かされ続けていました。入門前にも膝十字靭帯を断裂。2012年にも膝十字靭帯を断裂して手術を行なっています。
長期離脱後、新日本プロレスの真夏のビッグイベント「G-1 CLIMAX」で優勝したものの、人気が上がらず、ブーイングが起こることもありました。

転機となったのは2015年、メキシコ遠征に出た時でした。かつてより親交のあったメキシコのルチャドール(プロレスラー)、ラ・ソンブラやルーシュが立ち上げたユニット「ロス・インゴベルナブレス」に加入。
ベビーフェイスでもなく、ヒールでもない。自分達のやりたいプロレスをやるという戦い方に感銘を受け帰国。
帰国直後は、のらりくらりとした態度に観客からブーイングの雨あられでしたが、2015年11月に「ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポン」を結成。翌年には、トップ選手だったAJスタイルズ、中邑真輔がWWEへ移籍したことをきっかけに一気にスターダムを駆け上がって行きました。

IWGPヘビー級とIWGPインターコンチネンタルという、新日本を代表する2本のベルト巻いた初めての選手となり、歯に衣着せぬ発言とマイクパフォーマンスで観客の心を鷲掴みにしたのです。

現在は無冠ながらも、武藤敬司選手の引退試合の相手を務めるなど、プロレス界の中心に立ち続けています。

そんな内藤選手は僕と同じ1982年生まれ。同年生として心から応援しております!

さあ、次は第2位の発表です!

第2位 アントニオ猪木

第2位は、先日惜しまれつつ亡くなったアントニオ猪木さんです。新日本プロレスの生みの親。異種格闘技戦は、現在の総合格闘技の礎ではないかとさえ言われ、まさに日本を代表する格闘家と言っても過言ではなしでしょう。

1972年に新日本プロレスを立ち上げた猪木さんでしたが、当初はテレビ放送もない上に、全日本プロレスの圧力があったと言われており、有力な外国人レスラーを呼ぶこともままならない状況だったと言います。
それでも、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦を行うまでに漕ぎ着け、次第に人気を博していったのです。
更に、猪木さんは、タイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセン、ハルク・ホーガンなど、後々、スターとなるレスラーの育成も行いました。

また、「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」とする「ストロングスタイル」を標榜。ボクシング世界チャンピオンのモハメド・アリや、「熊殺し」の異名を持つ空手家、ウィリー・ウィリアムスと戦うなど、異種格闘技路線へ挑戦します。辛辣な批判もあったものの、これらの試合が「総合格闘技の礎」となったのです。

猪木さんは、伝説となるさまざまな試合を繰り広げました。上述の通り、世界チャンプに輝いたこともあるモハメド・アリと対戦してみたり、ハルク・ホーガンの攻撃によって失神したり、マサ斉藤さんと巌流島で無観客試合をしてみたりと、ファンの記憶に残る試合は数え上げれば切りがありません。
引退試合では、ドン・フライと対戦。最後はグラウンド・コブラツイストで勝利し、有名な「道」という詩を読み上げたのです。

プロレスラー引退後は政治家としても活躍。湾岸戦争の際には、人質となった日本人解放のために個人でトルコ航空の飛行機をチャーター。イラクに乗り込むと、「スポーツと平和の祭典」というイベントを開催し、人質の解放に貢献しました。

晩年は、難病である「心アミロイドーシス」を患っていることを発表。闘病する姿をYouTubeで配信するなど、同じ病気に苦しむ人ばかりでなく、多くの人に勇気を与えました。

猪木さんの試合は、今のプロレスを観ている人には地味に映るかもしれませんが、その闘志あふれる姿は誰がみても元気が出るものです。
おそらく、まだまだ多くの人が猪木さんの試合から元気と勇気をもらっているのではないでしょうか。

いよいよ第1位の発表です!

第1位 初代タイガーマスク

マンガから飛び出してきたスーパースター、タイガーマスク。その革新的なプロレススタイルに、当時のファンはもちろんのこと、現代のプロレスファンが観ても、一切遜色はないでしょう。
軽やかなステップ、強烈な打撃、ルチャリブレ仕込みの空中殺法。異次元の動きで観客の心を鷲掴みにしましたのが、初代タイガーマスクでした。

1981年4月23日、蔵前国技館がデビュー戦となったタイガーマスクの対戦相手は、後にライバルとして抗争を繰り広げるダイナマイト・キッドでした。
「爆弾小僧」の異名を取るほど、リスクを恐れずにアグレッシブなファイトスタイルのダイナマイト・キッドと、古舘伊知郎氏をして「四次元殺法」と言わしめたタイガーマスクのファイトスタイルは、数々の名勝負を生み出しています。

また、「虎ハンター」の異名を持つ小林邦昭氏との試合には、観ているお客さんはハラハラしたに違いありません。
虎ハンターの名前を一躍有名にしたのは「マスク剥ぎ」。つまり、マスクマンであるタイガーマスクの、命の次に大事なマスクを剥がすことでした。プロレスでは反則行為となるマスク剥ぎ。決して正体を知られてはいけないタイガーマスクを、剥ぐという暴挙は許されるものとは言えませんが、この一件からタイガーマスクのライバルとして知られるようになったのです。

タイガーマスクは技も美しく、動きも華麗で強かったため、当時の子供たちから人気を集めていました。
まるで、タイガーマスクの周囲だけ無重力になったかのように、飛び回る姿はまさにスーパーヒーローそのもの。
ローリングソバットや、サマーソルトキックなど、プロレス好きでなくとも耳にしたことがある必殺技でライバルたちと戦い、2年4ヶ月の活躍の中で155勝1敗9分という戦績を残しています。
しかも、その1敗は反則負けによるもので、ピンフォール負けをしたことがないというのですから、その強さが分かります。

また、タイガーマスクと言えば、そのマスクの変遷も楽しみの一つと言えるでしょう。
デビュー当初は、良く言えば「味のある」、悪く言ってしまえば「ひどい」マスクでしたが、次第に洗練されていき、誰もが知るかっこいいマスクへと進化していきます。
年代ごとに追いかけてみると、プロレスファンでなくても楽しめるかもしれません。

身体能力の高さ、プロレスを観せる技術、技のキレ、何を取ってもカッコ良いプロレスラーは、未だに出てきていないのではないでしょうか。
皆さんもぜひ、初代タイガーマスクの試合を観てみてください!

まとめ

以上、20年プロレスを観てきた僕が選んだおすすめレスラーBEST5、いかがだったでしょうか?
「いやいや、なんでジャンボ鶴田が入ってないんだ」
「ジャイアント馬場がいねぇだろ!」
「三沢光晴こそ最強!」
など、皆さんご意見があると思います。
よろしければ、皆さんが思う「おすすめレスラーBEST5」があれば、コメントで教えてください!
もちろん、この人こそベストレスラーだ!という1人でも結構です。
皆さんのコメント、心よりお待ちしております。

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