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シリアスさについて。

作家の友人のありさんに以前「レタルってシリアスだよね」と言われたことがあった。

私のブランド白いシャツの店レタルは、白いシャツばかり作っているけど、ブランドイメージは少しわかりにくいと言われていた。

自分でもあんまり当てはまる言葉が見当たらなくて、ノスタルジックなイメージとか、イノセントとか言っていたけど、なんか違うな、とどこかで思っていた。

そもそも言葉で説明できるものなら、言葉で表現すればよいわけで、言葉にならないものを作っている意識が自分にはあった。

レタルはシャツのブランドだけど、私にとっては作家活動に近いものだ。

服屋のスタンスとしてそれでいいのだろうかと思いつつ、自分で始めたことだし、自分のお金でやってることなんだから、それでいいだろうと思っている。

「シリアス」という言葉はポーンと自分に入ってきた。

そうだ、シリアスさなのだ、自分が表現したいことは。

時々、普段の自分と作品が乖離しているので作品を出すことが恥ずかしくなることがある。

でも、どちらも自分であって、どちらも必要であるのだけど、シリアスな自分というのは、いつもどこか恥ずかしい。

つい、汚したくて面白いことを言ってしまう。

私はとてもシャイなのだ。

北野武さんと自分が似ていると思うのは、大変おこがましいことだけど、彼のスタンスというのはちょっとわかる。

お笑い芸人でありながら、死ぬほどロマンチックで非情で美しい映画を撮る武さんのことは、なんとなくわかる気がしてる。

多分、どっちもないとダメなんだろうと思う。

ずっとシリアスな顔をしているのもしんどいのだ。

でも、面白いことを言ったり、明るく楽しい人として振る舞うあとで、小さくため息を吐くように、シリアスさというのが消えてなくなることはない。

最近自分の中でいろいろ変わりつつあって、つい私なんかもTwitterとかでは、くだらなく面白いことばかり書きそうになるのだけど、もう少しシリアスな自分を表現していくべきなのではないかと思うようになった。

それはまだシリアスで辛い状況にあるというよりも、シリアスな状況から少し離れられるようになったからな気がする。

渦中にいるときに表現するというのは、カタルシスにもなるけど、表現として客観性がなく、不十分にもなりやすい。

今ならもう少しうまくやれそう、というのが今の気持ちだ。

今作っている本も、次のレタルの展示会も、自分の中のシリアスさを吐き出していきたいなと思う。

あんまり面白おかしくピエロみたいに振る舞い続けていくには、人生は少し長過ぎることに気づいてしまったのだ。

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