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正直、僕は幸せな家族を見るだけで傷つくよ

 また例の如く、Twitterで表現についての話が盛り上がっている。

 あるイラストが公序良俗に反するだとか、これを見て傷つく人がいるだとか、そういう話だ。Twitterで、というよりも、何百年も前から繰り返されている話かもしれない。

 僕はこの手の話を見る度に皮肉な目で見てしまう。

 それなら”幸せな家族”の表現だって、規制してくれよ。僕は、"幸せな家族"を見ると、傷ついてしまうんだ。


 僕の両親は、僕が大学に入学する前に離婚している。

 割と良い年しているのに何を、と言われるかもしれないが、正直、ショックだった。

 両親が喧嘩をしているのは知っているし、若干、家庭内別居のケもあった。けれど、離婚、という覚悟はできていなかった。

 というか、そんなことをするだなんて想像もしていなかった。

 これから数十年、両親はきっと、この家で一緒に暮らすものだと思っていたし、僕がこの後、結婚したら、子供を連れてそこに帰省をするのだろう、と、ぼんやり思っていた。僕が両親に連れられて祖父母の家へ帰省したように。

 それが、大学入学前に崩れた。

 当時住んでいた家も売り払われたので、物理的な実家もなくなった。

 安心して帰れる場所がなくなってしまった、と、正直言って、狼狽えた。離婚後、どうも、両親が双方とも不倫をしていたらしいと聞いて、更に嫌な気分になった。

 そんなわけだから、正直言って、僕は幸せな家族を見るだけで心を痛めてしまうところがある。

 特に「離れられるわけないだろう、家族なんだから」とか「あなたには帰る場所があるんだから、ドーンとやってきなさい」とか、その手の台詞を表現物でみると「おお、良いよなあ。お前は」と斜に構えてしまう。

 確か、両親の離婚直後だったと思う。『マルモのおきて』の再放送がやっていて、えらく傷ついた。

 あのドラマは、疑似家族もので、「血縁関係はないけれど僕らは家族だ」とやっていく話だと思うのだけれど、僕はそれを観ながら「血の繋がりはあるけど俺らは家族じゃなかったわけか、へえ。離れちゃうんだもんなあ」と思った。

 そんなわけだから、僕は"幸せな家族"を見ると傷つく。

 そういう表現を規制してほしい。


 ――とは、正直、思っていない。

 僕にそういうのを取りやめさせる権利なんてないし、そもそも、そういう表現で傷つくといったって今は「幸せなこって」とちょっと僻む程度だ(両親にだって離婚する権利はあるし、子供を大学入るくらいまでは立派に育てあげたんだから、もう良いだろというのも分かるし、とかあれこれ考えられるようになったから)。

 ただ、ネット上で、正義の人たちが「この表現は誰かを傷つける」と叫ぶ時、僕は、「その理屈なら……」と思ってしまうのだ。

 誰も傷つけない表現なんて、この世界に多分ないぞ、と。

 『マルモのおきて』なんて、どこにどう出しても恥ずかしくない全年齢向けのドラマじゃないか。あれでも、傷つく人はいるんだぞ、と。


 勿論、この議論はそんな単純なものではないという意見はあると思う。僕もその通りだと思う。

 ある人は「そうだとしても、表現をする場というのを考えるべきだ」と言うだろうし、ある人は「程度問題と、傷つく人の数の問題がある。”幸せな家族”で傷つく人よりも、この差別で苦しむ人は多い」と言うだろう。

 僕は「そうです。これは難しい話なんです」と言いたい。

 「誰かを傷つけるやつは全部駄目? じゃあ、”幸せな家族”もなしにしてくださいよ。僕も傷つくから」「誰を傷つけてもOK? なら、聖書やコーラン燃やしましょう」「天皇は燃やして良いけど、このポスターは女性差別だから駄目? 意味分からないんですけど」「これは僕の価値観ですけど、あくまで僕の価値観ですけど、その絵って、そんなに尖っていますかね……? 傷つく人の方が少ない感じありません?」

 ……あたりが、この手の問題に対して、僕の思うところだ。

 面倒くさいと思う。

 でも、そんなものじゃないですか、となるのだ。

 正義と悪に単純に割り振られるものではない。

 たとえば、受け手の意識を変えることだって、必要だと思う。僕が今、”幸せな家族”に深く傷ついていたあの頃の僕を、こうして戯画化して書ける程度に距離を置けているのは、僕の心が変わったからだ。強くなったのかもしれないし、鈍くなったのかもしれない。どちらかは分からない。

 ちょっとバズったこのツイートは「本当にそんな状態になってるんですか?」という皮肉もぶっちゃけ込めてはいるが、半分は本当に「それなら、社会活動をするよりも、ちゃんとカウンセリングを受けた方があなたの苦痛は和らぐ筈ですよ」という気持ちも込めている。

(と言いつつも、僕は「そういうことを言うのは、僕が精神が強いあるいは鈍い人だからじゃないか。本当に傷ついている人たちは、こういう言葉でも傷ついてしまうだけではないか」とか考えたりもしている。僕の頭の中には常にいろんなインターネットからの意見がある)


 とにもかくにも、世界はめんどくさい、と思っている。

 だから対話と調整が必要なんだけど、それができる人というのは少ないし、しようと思う人はもっと少ない。

 でも、まあ、できるだけ、頑張ってやっていった方が良いんじゃないかなあ、というのが”幸せな家族”で傷ついてしまう僕のぼやきだ。

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