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暴力に正当性はあるのか...?

映画『暴力をめぐる対話』ダヴィッド・デュフレーヌ

2018年、燃料税の引き上げ、生活費の高騰を背景にマクロン政権に対する抗議として行われた「黄色いベスト運動」。
当時はなんとなくでしか追ってなかったけど、自分のの抗議運動への関心とこの映画が、黄色いベストについてよく考えるいい機会になった。
タイトルにもある通り、『暴力をめぐる対話』ではデモ隊に対する警察の暴力が取り扱われていて、暴力が行使される現場の映像が流れ、その映像を見る多様な職業や立場の人々が議論を行っていく。
あまりに多くを考えさせられて、見ていながら頭がパンクしそうだった。真っ暗じゃなければメモをとりたかった... 

技術革新が可能にした平等

映画内で使われていた映像の多くはその場にいた個人がスマートフォンで撮影したもので、それだけに臨場感に溢れていた。
まず率直な感想として、銃声が鳴り響く様子や人が撃たれたり殴られたりするのはもちろん、武装した人間(警察)が迫ってくるというのもスクリーンを通してですら恐怖を感じた。
警察はいわゆる正当な手段としてその武器を使うわけで、しかも警察に対する警察的な存在はそこにはいないわけだから、もはや止めることができないという感じが絶望的にも思えた。
しかし、このような警察による暴力が行われるというのはこの時に始まったわけではなく、世界各地でこれまでにも幾度となく起こってきた。

特に黄色いベスト運動において警察暴力が明るみに出た理由としては、スマートフォンを使用することによって個人が簡単に動画を撮影しネット上に拡散することが可能になったということがある。
何ヶ月か前に見た映画『パリ 1986』では警察の暴力によって移民系の青年マリック・ウセキンが命を落としたこと(実話)が描かれていたが、警察の暴力によって殺されたという証拠がないために、目撃したという人が現れない限り訴訟が困難になっていたことが印象に残っている。
これは、目に見える情報がないことを利用して警察が権力で隠蔽しようとした例であって、この例を踏まえると、スマートフォンは個人が残す暴力の映像が客観的な情報になり得るという点で重要な役割を果たしているといえる。
もちろん個人の自由な情報発信に関して議論は存在するが、国や警察組織の権力、企業の利害関係の影響を受けずに情報を保持し伝えることができるというのは民主主義において大きな意味を持つと言えよう。
リアルな警察暴力の映像が多く残っているのにはこのような科学技術的による可視化という背景があって、世論の形成に大きな影響を与えたと思われる。

警察の暴力を考える

まずは、警察の治安維持機能について。

民衆の生活の安全を保障するために置かれているはずの警察だから、本来は民衆に基づいた形で治安維持の役割を果たすべきであるが、黄色いベスト運動を含む多くの大規模なデモでは、暴徒化するデモ隊から人々を守るという名目で政権の指示を受けて、今度は民衆の命を脅かす敵となっている。
彼らが結果的に守っているものは人々の安全というよりも、デモによって糾弾されている現政権と現政権による社会の秩序であるといえる。
デモが起こった際にこの政権&警察 vs 民衆という対立構造が出来上がるのは必然なのかもしれない。
どれだけ彼らが機械的にこの治安維持の任務をこなそうと、それは政権とのつながりが強いものであって、体制を維持することにつながってしまう。
この文脈の中では、治安維持の名のもとに行使された暴力には民主主義的な根拠はない。

映像の中に見られる個々の現場のケースを見ていくと、構造では語れないような感情的な要素もあるように感じた。

この映画には、どう見ても必要以上(そもそも必要なのかは疑問)にデモ参加者を殴り続ける警官や、無関係の人に対しても無差別的に攻撃する警官が何度も出てくる。
殴られている人が「やめてくれ!」「私は何もしていない!」と何度叫んでも聞き入れる様子はなく殴り続ける。デモ隊の暴動を止めることを目的としているにしては殴りすぎだし見境がなさすぎる。
自分のやりたくもないことをさせられる原因となっているデモに恨みがあるのか?とにかく冷静さを欠いているように思える。
映画内の議論には警察関連の人も参加していたが、彼らの意見は非常にわかりやすく警察側であった。
中には、「自分の同僚(警察)が侮辱され攻撃された」と訴え、暴力を正当化しようとする人もいた。
もしかしたら、暴力に歯止めが効かなかったのにはそのような仲間意識的な理由もあるかもしれない。
あるいは、マクロンの側近であるアレクサンドル・べナラが警察に紛れてデモ隊に暴力を振っていたのと同様に、警察は権力の下に暴力を合法で使用できるという感覚、自分の物理的な力で民衆を従わせることができるという感覚に酔っていたのかもしれない。だとしたら本当に恐ろしい社会だ。

もう一つ、暴力の象徴的な使用についても話したい。

ある警察が撮った非常に印象的な映像があったのだが、その映像では、運動に参加した高校生(?)の集団が武装した警察の取り締まりの前に跪き両手を上げて頭に当てた姿勢を長時間させられていた。
警察は武器を持って脅しながら彼らに言うことを聞かせ、「お利口だ」などと発言しており、警察側がこれを撮影しているのも含めてまるで支配している状況を楽しんでいるかのようだった。
これももちろん権力にある者の持つ感情的要因の恐ろしさを物語っている。
さらにここに見られる警察の言動からは、「抵抗せずにおとなしくしている市民=利口=良い市民」とする考えが伝わってきた。
あるいは、「こっちは武器を使うことができるのだから、従った方が賢明だし当たり前だよね?」という考え。
ここでは武器や暴力は権力側の市民に対する支配の象徴的役割を果たしており、実際に行使されるか否かに関わらず自分の命を失うわけにはいかないから権力を伴う暴力を前にして、民衆は運動を止めて跪くことを強制される。
それでも抵抗した人々は他の映像に残っているように殴られ目を打たれ手を失う羽目になる。

これに対して、デモの行う象徴的な暴力といえば破壊行為だろう。
黄色いベスト運動は直接的には富裕層を優遇し中間・貧困層から搾取する政策に対する抗議であるが、背景には前提としてそもそもの格差を生み出し許容している資本主義社会による民衆の抑圧が存在しており、彼らの破壊行為は資本主義や所有の象徴を対象としていて、そのような暴力的な構造に対する抵抗としての意味を持つ。
その破壊行為にはほとんどの場合危険が伴うものであるから本当の意味で治安維持を行う必要はあるし問題にはなるが、それをただの暴力行為として受け取ってはいけないはず。
それを行っているのは社会構造や政治によって自分の生活を危険にさらされている人々であり、抵抗や問題提起の意味合いを受け取ることが特権を享受している層の果たすべき義務だと思う。
本来は、言論で主張している時点で人々に耳を傾けて、彼らがさらされている危険を認識するのが理想ではあるが。

タイトルで提示した「暴力に正当性はあるのか?」という疑問、とりわけ警察暴力に関して答えを出すならば、それはとりあえず「いいえ」だろう。
もちろん、彼らは治安維持という役割を持っていて、市民の安全が脅かされる場合にはその暴力の加害者を止める必要がある。
ただ、黄色いベスト運動の事例では明らかに「止める」以上の行為を行っており、中には感情に任せて殴り続けたり権力の行使を楽しんでいるような人もいた。
戦争も同様であるが権力と武装を伴った攻撃は本当に怖いだろうと思うし、いかなる権力構造においても権力につく側、力を有する側には大きな責任が伴う(スパイダーマン のベンおじさんが言ってた)。
一部暴動はあったのかもしれないが、警察の力はその暴動そのものに対して最低限で抑止的な意味でのみ働くものであって、他のデモ隊に対して未然に暴動を防ぐために暴力を行使するのは特にこの力の不均衡的な観点からすると無責任であると思う。
それに、安倍さんの銃撃の際と重なるが、政治活動を行うだけで命の危険にさらされるなどということはあってはいけないし、それは政治活動の権利が脅かされているということになる。この警察暴力の件ではデモの権利、抗議する権利のことである。
デモは議会制の欠点を補って民主主義を担保するものの一つであって、政府はその権利を認識する必要があるだろう。
デモに対して治安維持を行うことは必然的に現体制を守ることになるし、デモが問うているものこそが体制であるということも念頭におかなければならないと思う。
暴力の危険性ゆえに人々がデモを行うことを恐れてしまうようでは、それは間違いなく正当なものではない。
民衆を統治する権力にはどの規模でも常に抑止力がつきものであるが、今回考えた点も踏まえて改めてその非対称性や難しさを考えさせられた。

最後にこれを読んでいる皆さんにも『暴力をめぐる対話』を見ることをぜひお勧めしたい。
生々しい映像の数々が視覚的に訴えかけてくるし、当事者や識者達の議論がとても興味深い。
とりわけ面白いのは出演者達が過去の哲学者や社会学者などの説を引用したり考察したりした上で自分の意見を述べているという点で、何かしらの是非を考えるにあたって全ては誰かが規定した基準、つまり哲学の枠組みに沿っているのであって絶対的な基準はないということを考えさせられる。

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