2019年 6月29日(土)

 朝、微かに雨は降っていました。私は折りたたみ傘を持って行きましたが、開きませんでした。浪費の罪悪感とともにバスに乗り、電車の中で本を読みました。この時から、気分が悪くなっていました。

 なんとか8時間半のアルバイトを乗り越え、最寄り駅のショッピングセンターでソファに腰掛けて、立ちっぱなしでじんじんする足を休ませていました。最寄り駅に着く間、各駅停車なのに随分速く感じた電車の中で、私はだんだんさみしくなっていました。

 会えそうな友達に連絡したものの、会えなくはないけれど友達の両親に迷惑がかかりそうだったので今日は会わないことにしました。その友達の両親にはいつもとってもお世話になっているので、彼らの着飾らない親切のことをよく知っていましたし、今日会いに行っても心から迷惑ではないことも分かっていました。私は人から好印象でないと不安なので、相手の不都合に踏み込む勇気がないのです。きっと、相手の不都合に踏み込める人は、自分の不都合にも相手に踏み込まれるでしょう。でも、そもそも都合なんて人それぞれ異なるのが前提で、私の好都合は常に誰かの不都合です。それは正や悪の価値観が人それぞれであることと同じです。分かっていても、私は保身してしまいました。

 今日は買い物や食事でさみしさを埋めることはできない。昨日も、その前も元気を出すために沢山お金を使ったから。そして、それらは紛らわせることしかできない、さみしくない日々を作ることに何の解決にもならないことも学習しました。

 さっき会わないことにした友達から、やっぱり会おう!と連絡が来るかもしれない。他人任せに期待しながら、とりあえずラーメン屋で鉄板チャーハンを食べることにしました。店内では65歳くらいのおじいさんが、店長らしき男の人に声を張って怒られていて、どちらが悪いわけでもないけれど苦しそうな生活の影を見て何だかもっとさみしくなってしまい、半分ほど残して静かに逃げるように店を出ました。

 行くところもないので家に帰る道を歩きました。雨は小降りで、道を歩くほとんどの人が傘をさしていましたが、濡れたまま帰りました。さっき食べたチャーハンの油とニンニクと炭水化物が下腹に重く、少し吐き気もありました。歩いていると、自然と顔は下を見て、歩幅は小さくなりました。たのしくない日常、遊んでいないし遊ぶひとがそばにいないこと、音楽作っていない現状、人より下手だったらプライドが傷つく、わるく、わるく考えました。机の端にあったものがバランスを崩して落ちるように、今死んでしまいたいと思いました。本気で自殺を決行しようと思っていないけど、夢も何もかも失くしていいや、と思うのは久しぶりでした。雨に打たれながら顔を歪めて泣きました。

 こんな風にわるく妄想して、症状を実際以上に演出するのは母のよくやる手です。自分の中に母が流れていることには気づいていたけど、とても実感して、それと向き合う歳になったのだなと思いました。

 家について、バタンとベッドに倒れました。PCを開くとYouTubeの画面で、動画でも見れば少し元気が出る気がしたけど、それは不安やさみしさをぎゅうっと見えないところに隠してごまかすだけだと気づきました。

 悩んだ夜は沢山あれど、不安やさみしさを人に相談していいのか、未だわかりません。相談するのは、己の長考から逃げる甘えでしょうか、それは悪いことでしょうか。それとも、相談することを厭う必要は全くなく、人に支えてもらうことは人生の喜びでしょうか。

 しばらくして、今朝冷蔵庫にさくらんぼがあったのを思い出しました。階段の上まで来ると、リビングからパチッパチッと爪を切る音が聞こえました。父の部屋から大音量でテレビの音が聞こえるので、どうやらリビングに兄がいるようでした。そういう時、私は、安心する居場所がないことを思い出して絶望してしまうのです。階段に座り込んで泣くのです。前にもありました。家族という小さな国家からはみ出すと、子どもは生きていけないのです。ピアノの部屋で電話している母にも、リビングで爪を切る兄にも、自室にこもって大音量でテレビを見る父にも、苛立ちました。

 

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