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#9 孤独のドアを開けて

~ここまでのあらすじ~
叔父が経営する工場。社長が70歳を迎えても後継者が決まらない問題には
ある日突然会社に来なくなって2年たつ一人息子(いとこ)の存在があった。
借金も限界にきて家賃も滞納しガリガリに痩せて引きこもっていると聞き「私」と「姉」は救出に動き出す。


会社に戻ると言い出す息子、転居先を決めたが・・・

「あいつから電話があって出社するというので近くに越すように話した。」と社長。静かな面持ちで嬉しいという様子ではなかった。
「えっ!よかった!とりあえず一安心です。」と私。

姉によればアパートの家賃は社長が払ってくれたみたいで、息子本人にも確認するとチラシを見せられ「ここに決めました」4月中旬転居予定という。ただ社長からは「3月末までに転居、4月から出社しろ」と言われた、というので姉が「そう言われてるなら4月は今のアパートから通いなさい」と言うが、「無理。GW明け以降しか出社できない。」と本人が言い張るので
「おじは納得しないよ。来られる日だけでもいいから来なさいね」と諭して別れたという。
親子の会話に口は挟めないけど大丈夫なんかな?と姉と二人で心配していたことが的中した。

もう来なくていい

細かいやりとりはわからないが、やはりいつから出社するのかでトラブったようで、息子は「体力がないから行けない。体調万全になってから行く」、社長は「4月から来られないならもう来なくていい」で終了。
引っ越しもなかったことに。


とうとう行きつくところまできてしまった・・・

どうしたのかと姉がたずねると「話がこじれた」と息子。これからどうするのかと訊くと「どうしましょう。バイトでもしようかな。」と相変わらずののんきな返事。
2~3日後にはメールがあり「文字おこしのバイト1回3000円」とあったので「それで食べられないよどうするの?」と返信すれば「家庭教師のバイトも応募しました。原稿を起こす仕事も応募したけどテストがあるのでこれからテストに向けて勉強します」ときたので「そんなことやってる場合か⁉」と返信しちゃったと憤怒しながら話していた。
話を聞いて本当にまいったな~と思うが、本当に問題なのは、周りが振り回されているのに、本人はどこ吹く風。まるで他人事のように受け身である。これもASDゆえ仕方ないのかそうではないのか、我々にはわからない。


1か月後、息子からの電話、そして。

『携帯の契約が切れる。来週にはPCも止まるのでもう連絡できません。』
姉が電話をとってそのあと社長に代わると40分くらい長電話していたらしく内容はわからないがあとで聞くと『いつもより実のある話ができました』と息子が言っていたそう。(?いつまでも実らない君が言うか。)

数日後、携帯がつながらなくなったので姉が心配し直接アパートを訪ねるとドアに目張りやバリケードがしてあって「督促状がきていて本当にまずいです…」と言い、「食べられない」「戻りたい」と初めて自分から口にした。
姉は「来る気があるなら待っている」と言い残した。

そのさらに数日後、やっと本人が自分の足で、社長をたずねてきた。
二人のやりとりはわからないが、督促状を持参し、利息を払わないと裁判になると泣きついてそこだけは対処してもらったようだ。(完済はせず)
2年ぶりに会社で働く身内にも顔を見せ「しっかりやっていると思ったのにどうした?」と聞かれると「会社に戻りたい」と言葉にしたらしい。

根くらべが必要だった

ここまでを改めて振り返ると社長はこれまでの経験から息子とがまん比べをしたのではないかなと想像する。
息子はASDの特性があるにしても、借金を2度もして、働くこともせず、
こうなることは予想できるのに一人暮らしを続けてきた。それは間違いなくただ黙っていれば最後は周りがなんとかしてくれるという甘えだった。
会社を継ぐこともそうだが、彼は受け身で、甘ったれだ。
親戚の私たちが心配して世話を焼いてしまうのも、甘えの要因になっていたかもしれない。彼は甘えられると思えばどこまでも甘えてしまうのだ。
彼が自分からあの殻(アパート)を出て、自分の意志で「戻りたい」と、
「もう一度お願いしたい」と言わせることは筋としてやはり大事だった。

一緒に転居先さがし

ひとまず家賃滞納と督促状の心配はなくなったので、少し元気になった彼とわたしたちは一緒に会社の近くにアパートを探し始めた。前に本人が決めたアパートは会社に通うには不便だったこともあるので、会社から20分圏内で探そうと何件か内見し、「ここがいい」という部屋があったので決めた。
しばらく引きこもっていたこともあり彼も話し相手がいるのが少し楽しそうに見えるし、笑顔も出てきて、姉と私もなんだかよかったなぁという安堵の気持ちが広がった。

私は、『前に働いたときは彼の特性がわからなくて、合わない仕事をさせてしまってたし、周りもサポートできていなかったけど、今度こそ彼の特性を理解したうえで、環境を整えて、協力して進めていけるようにしようね』と期待をいっぱいに姉に話していた。

本当によかったね、から一転・・・

しかし一筋縄ではいかないもので、特にトラブルもなかったのに、彼が突然消息をたった
まだ出社もしていないし、アパートも決まり、これから引っ越しの段取りだというところで、どこにも姿が見えず連絡もとれなくなったのだ。

心配性の姉は狼狽していたがこうなってはどうすることもできず、待つしかなかった。結果的には、数日たって本人から姉に着信があり、まずは無事でよかったと、いとこ3人で会うことにした。

相変わらず青白い顔でひょろっとした体の彼。どうしたのかと聞けば、
「いや、死のうと思ったんですが、これがいざとなるとね、なかなか死ねないもんですねぇ。」とへらっと笑った。

ぶっ飛ばしてやろうかとも思ったけど、効果がないと直感した。
彼の表情には得も言われぬ違和感しかなくて、やっぱり彼は異常だなと私は思った。

こんなに姉に時間をかけてもらって、心配してもらって、どんなに皆で諭しても、どんなに心を砕いて話しても、何も届かない。
何も届かないだ。

命を天秤にかける人間

自分から戻りたいと言ったものの2年離れていたのでうまくやれるか不安があったり、いざとなったらプレッシャーがのしかかったのかもしれない。
引っ越しに対する不安もあっただろう。
しかしそれだけだったのか、わからない。
もしかしたら利息だけではなく”全額返済する”と言わせるため、あるいは、仕事に毎日来なくていいなど譲歩を引き出すための作戦なのかもしれない。

事実、結果的に、彼は実家に帰ることになり、働きにくることも当面延期となり、借金は親によって完済されることになった。

彼は肝心なところでは下を向いて口を閉ざすので、意識してやっているのか無意識なのかはわからない。
ただ、彼は命を天秤にかけてくる人間だ。

社長が言っていた「命を盾に親を脅してくるのだけは決して許すことができない」というのがこの時よくわかった。

親子会議、そして引っ越し

それから何度か4人で話し合いの場を設けた。
何時間もかけていろいろな話をし、彼は20年ぶりに実家に戻ることになった。社長も今は一人なので、親子二人暮らしになるのは悪いことではないと思うし、すぐに働けるとはとても思えないのでそのほうがよいだという判断になった。
彼も、もう一人暮らしにはこだわらなかった。
とにかく借金を返してもらい、実家に戻ること。それで納得していた。

実家に戻ることが決まってからは早かった。
室内がとんでもないことになっていると言うので引越し業者には依頼せず、姉と私と社長の3人で彼の引っ越しを手伝うことにしたが、
夏の暑い日、私たちは信じられないような光景を目にした。

それは「人が住んでいる部屋」には見えない。

部屋中に白カビが生えていてまるで胞子でも舞っているのではと思う室内。
ありとあらゆる場所にほこりがたまっていて、薄暗い部屋の中央、足元に
薄汚い布団がまるめておいてある。
「まさかこの上で寝ているの?」と引き気味に聞いた。信じられなかった。

畳やわずかにある家具は真っ黒に汚れ、雑巾が何枚あっても足りない。
風呂場は真っ黒にカビが生えてぬるぬるで本来何色の浴室なのか判別できない。「まさかここでお風呂に入ってるの?」と聞くと「シャワーだけです」と言うがシャワーだってこんな浴室は普通の人は耐えられないだろう。

部屋中にペットボトルが散乱していた。バルコニーにも、何年経ったのか、風化したプラスチックごみが山積みになっていた。放っておくとこんな風になるんだなと思った。

ほとんど家財はないが、大量の書籍があり、「これもう絶版で売ったら高いんですよ」などと嬉しそうに話しているがその本は白カビだらけだった。
「大切にしなきゃ無価値だよ」と言ってほとんどの本を捨てた。

ひとつずつ「これはいるの?」「保留?」と確認しながら処分していく。
必要なものだけを選び出し、トラックに乗せた。
部屋の掃除は必死にやってみたが、この先何日やってもきれいにはならないだろうと思った。できるだけのことをやって最後は大家さんにお詫びをし、代金を請求してもらおうということにした。


初めて彼のアパートにはいってやっとわかった。
彼はたしかにASDであり、社会生活になじめない、生きづらさを感じる人でそしていつからか心を病んでしまっていたんだと。
家族にはなかなか気づけない。彼はきっとうつ病だったのだろう。


こうしてとりあえず、姉からSOSを頼まれた社長の息子の件は、
ハッピーエンドとはいかないまでも一応の幕引きを迎えた。

姉と私は、とりあえずあのアパートでの引きこもり生活が終わっただけでもよしとしよう、次のことはまた元気になった頃合いをみて考えようねと、
互いを励ましあった。