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#1 わたしと町工場

はじめに
これから始める記事はわたしの親戚が40年営んできた小さな会社にまつわる出来事を、自分の気持ちをひとつずつ整理するために綴ったものです。

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まだ年号は昭和の頃。幼少期の私が住んでいた町にはあちこちに町工場が
あって学校の帰り道にはいつも、トンテンカンテン、ギーッ、シャーッ、
パタパタ、ドドーンッ!
そんな音が聞こえてきました。

軒先からちらりと見える中の世界は薄暗くて、
あぶなっかしいモノたちが無造作に置いてあって、
時折火花なんかが見えたりして、
子どもにはよくわからないけど近寄ってはいけない場所。
『働くおじさんたちの世界』でした。


そんな『働くおじさんたちの世界』に初めて私が足を踏み込んだのはたしか小学校4、5年生の頃でしょうか。
1人では開けることができないほど大きな分厚い鉄扉の中には
数々の見知らぬ巨大な黒い鉄の塊があって、どうやらそれは旋盤とか、
切断機とか、ボール盤とかいうらしいのですが、
どんな字を書くのかも何をするものなのかもさっぱりわからないまま
「決して近づかないように」と言われ、遠巻きに眺めるだけでした。

それでも、自分は他の同級生たちが知らない【秘密の現場】に足を踏み入れているのだというワクワク感、特別感がありました。

「こっちでこれに同じようにハンコを押してね」と工場内にあるプレハブの古ぼけた小さな事務所で笑いかけるのは母です。

電話応対をしたり帳簿をつけたりキビキビと働いている母の姿は普段とは違って見え、叔父さんに「社長」と呼びかけたりしていて、私の目にはとても新鮮に映りました。

お手伝いは最初は領収証などの書類のハンコ押しに始まり、事務所の掃除、書類を綴じる作業、慣れてくると郵便局へのおつかいまで、
小学生の私にはドキドキの連続でした。

特におつかいは失敗が怖くて緊張したけれど、無事にできるとまるで自分が大人の一員になったみたいで誇らしく、鼻高々といった感じでした。


とはいえ普段は学校と部活がありますし、会社が遠かったこともあり、
手伝いは長期休みのごくたまにのことでしたが、
高校生くらいになればやれることも増えて、もちろんバイト代目当てに、
電卓片手に帳簿の縦計算をやったり、母が持ち帰ってくるこまごまとした
内職も自宅で手伝っていました。

会社をやるって大変なんだな。
雇われる立場があれば雇う立場というものもあることを考えるようになり、当時は漠然としたイメージしかなかったものの「親戚が会社を営んでいる」ということは、いろいろな仕事の話を親や親戚から聞く機会が多く、自分の生い立ちから外すことができないベースになった部分だと思っています。

母も、滅多に来ない私の手伝いを本気でアテにしているわけはなく、
今にして思えば鍵っ子の私を不憫に思って少しでも一緒に過ごす時間を
つくってくれていたのもあるし、はやく自立したしっかりした子になって
ほしいという気持ちもあったのだと思います。


そして私は大学卒業後は就職をして、まったく別の人生を歩んでいたので
この町工場のことはたまに親戚が集まれば耳に挟む程度で、
自分自信のリアルな記憶はここ(高校生くらいまで)で止まっていました。

ところが、いろいろなきっかけが重なって思いがけず、
私はこの会社で仕事をすることになるのです。


町工場よこんにちは


退職後、初めての主婦業を満喫していた私のもとに一本の電話が入ります。

「お願いがあるんだけど・・・ちょっと手伝ってもらえないかな?」

「え?急にどうしたの?」
電話の相手は私の姉でした。

姉は先述の母亡き後、叔父の会社の経理として働いていました。
母が亡くなって4年の歳月が流れていました。

私としては叔父の会社には関わることはないと思ってきたので
予想外の話に少し驚きましたが、
週一回程度で処理できるPCの入力作業であること、1年間限定であること、
臨時のサポート業務とのことなので、それなら今やっているパートタイムにも影響のない範囲だからと快諾しました。

会社は子供のころに母がいたあの場所ではなく移転していたので、
新しい社員も増えていたし、私にとっては未知の世界になっていましたが、
仲のいい姉と一緒だし、一緒に通勤する道すがら久しぶりにいろいろな話に花を咲かせられるので(ここ10年ほどお互いの環境も生活圏も違うので滅多に会っていなかった)それはそれで楽しいひとときになるねと、
よもやま話をして過ごす毎日になりました。


まさか、このあと様々な問題にかきまわされることになるとは予想もせず。