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#2 母の形見

姉に頼まれて叔父の会社に週1回のペースで顔を出すようになってから
日々懐かしいものによく遭遇しました。


移転してもなお変わらず昭和のにおいがたっぷり残った事務所には、
亡くなった母の思い出がたくさん残っていて、
母が使っていた机、文房具、
古い帳簿にいまだ残る母の文字、
わたしが子供の時につかってた下敷きや定規やキーホルダー(?!)
「こんなところで使われてたなんて」と可笑しいやら苦笑いやら。

母はここで30年間働いてきたのだ・・・

母と、二人の弟たちと、三人で築き上げてきたこの場所で。


これまで自分が持っているものの中で母の形見は何か?と考えると
「着物かなぁ?」と思っていました。

上の写真は長じゅばん(着物の下に着る肌着)ですが、母の祖母が母が生まれたお祝いに機織機で織ったものです。
おばあちゃんも母も着物を着る人で、私も着物が好きだったので何枚か譲りうけていますが中でもこれはやっぱり特別に感じています。


しかし、真の形見はもっと違う場所にあったことに気づかされました。


この会社こそ、私たちにとっては、母の形見なのではないかなと。




まだフルタイムで働く母親などほとんどいなかった時代。
小学校1年で鍵っ子となった私には子供なりの苦労もたくさんありましたが「仕事が趣味」と豪語する母は優しくおおらかでとにかく仕事熱心でした。

夜7時頃に帰宅すると大急ぎで夕飯をつくり、子供たちが寝静まるころには会社から持って帰った仕事を一人黙々とやっていました。
幼いころに記憶に焼き付いた母の姿といえば、ちゃぶだい、電気スタンド、そろばんをはじく音、そして”どてら”姿。(つくづく昭和ですね。)
幼いころは仕事をしている母の傍らで話しかけ「一緒に寝ようよ?」と
よく甘えて仕事の邪魔をしていたと思います。

母はとても知性的で、善良で、心の美しい人でした。
小さなことにこだわらず、どっしりとしていて、一匹狼で、
そのくせ明るくお茶目で、男女問わず多くの人に慕われました。

ずいぶん後に聞いた話ですが、母は常に最低賃金、弟たちにたくさん給料を出そうと苦心して、少しでも経費を使わないように何でも自でやっており、ある時に税務署の人から「これほどお一人で専門業者に頼らずやっている方は珍しい、凄いですね」と感心されたこともあったそうです。

そこまで熱心になれたのはほかでもない、弟の会社だから。
そして、やはり仕事がおもしろかったから。




母は子供時代に父親のことでずいぶん苦労をしたようで、若いころに母親(私の祖母)と弟たちと地元を捨てて逃げてきたと言っていました。
母がよく話していたのは、弟が二人とも頭脳明晰でスポーツも得意で地元でも有名で進学が期待されていたのにそういった問題と経済的な理由で進学が叶わなかった、二人にはものすごい能力があったのにかわいそうだった、ということでした。
幼いころには叔父さんたちの武勇伝を聞くたびに「私の叔父さんは凄い人」と単純な誇らしさみたいなものを感じていましたが、成長するとともに、
そのような苦労があったのにそんなことを微塵も感じさせないほど底抜けに明るくパワフルで堂々とした叔父たちに敬意を抱くようになりました。

知力、体力、精神力、見た目、そして強運。すべてを持っている。
叔父は起業すべくして起業したのでしょう。



仕事は趣味!と笑い飛ばし、
寝ている時間以外はずっとなにかしら働いている。
そんな我が母の仕事人生でした。

いろいろ経験した今は思うのですが、やはり経営に携わるというのは苦労もあるけれど、一世一代・真剣勝負のオモシロさがあると思います。

ましてやそれが他人ではなく身内のためでもあるとなれば、こんなに刺激的で面白くやりがいのあることはほかにないのではないでしょうか。

母は自分の人生に賭けるものをみつけたのかもしれません。
※その変わり子供たちにはまったく関心がなかったですが(笑)

結局母は働き過ぎのせいかはわかりません。長寿家系にしては少し短めの
生涯を終えましたが、我が人生に悔いなしと言っているでしょう。



そしていま。

この会社の景色を眺めていると、ある意味では、
これこそがわたしにとっては『母の形見』なのかもしれないと。

(そんなことは口には出せませんが。)

母が懸命に守ってきたこの会社をわたしもよい形で見守りたい。
これは私にめぐってきたご縁なのかもしれないと、
胸に秘め思い始めた2018年の始まりでした。