見出し画像

六花亭 の 智宏風ハヤシライス

北海道と言えばお菓子…銘菓の宝庫です。

その中でも十勝地方は、気候的にもお菓子作りにピッタリな環境と言われています。

その銘菓の中心都市の帯広市で誕生したのが、六花亭です。

ホワイトチョコを初めて日本で生産したことでも有名です。

現在、巷で出回っているホワイトチョコは甘ったるくて嫌いだけど六花亭のホワイトチョコは大好きという人も居るぐらい、本家のホワイトチョコは違います。

ですが、その六花亭はお菓子が美味しいのはもちろんなのですが、喫茶で食べれるお料理がまた美味しいのです。

ビーフシチューに、ハヤシライス、カレーライス、ピザ、グラタン、クラムチャウダーなど…、そしてパンも美味しいわけです。

ビーフシチュウ
グラタン
3月のピザ(クレソンピザ)
5月のピザ(アスパラベーコンピザ)
クッペ
クッペ(ポロシリ)
クラムチャウダー
ポロシリカレー
そして、何より美味しいホットケーキ

あとは、季節限定のお菓子や毎月7日に予約限定で食べれる“おやつ屋さん”など、いろいろおもしろい仕掛けも散りばめられています。

毎月7日は おやつ屋さん
季節で変わる喫茶限定のチーズケーキ
六花亭のケーキ
六花氷

六花亭の歴史を見てみると、最初は札幌に本社がある札幌千秋庵(現在の千秋庵)から1933年に暖簾分けされて帯広千秋庵という名前で営業していました。

札幌千秋庵社長の岡部式二さんの弟である岡部勇吉さんが経営していましたが、体調不良の為、1937年に甥の小田豊四郎さんに引き継がれました。

帯広千秋庵は、豊四郎さんが引き継いだ当時は非常に経営が苦しい状況で、豊四郎さんとその母の二人でその日暮らしをしていたそうです。

そんな状況下で、1939年に豊四郎さんは旧知の先輩から500円(現在の価値に直すとおよそ220万円)を借り、借金の返済に充てようとしましたが、先輩から“借金の返済よりも、砂糖を買いなさい”と助言を受けたそうです。

日本は太平洋戦争に突入し、価格統制令などによって予備購入をしていなかった同業他社が砂糖不足に陥ってしまいました。

しかし、豊四郎さんは砂糖を豊富に持っていたので、その結果、地域の一番店になりました。

1943年に豊四郎さんは招集されて、帯広千秋庵の店舗は偕行社(陸軍の部隊駐屯地外の集会所になり、その後、軍装品などを販売していた会社)の売店になり、豊四郎さんの母と奥様はその家賃で生活していたそうです。

菓子を製造する機械もすべて強制的に没収され、帯広千秋庵としては営業も製造もできませんでした。

終戦後、豊四郎さんは1946年に帯広に戻り、帯広千秋庵の運営を再開します。

統制品は使用できないので、蜂蜜、たまご、牛乳だけで作ることのできるアイスクリームのみの販売でしたが、物資不足の中で好調な売り上げになりました。

そして、フスマ(麦の製粉時に出る糠)や南瓜の餡で作った饅頭など…菓子の種類を増やしていき、1952年に帯広千秋庵初のヒット商品となる“ひとつ鍋”を販売しました。

そして、1968年には日本で初となるホワイトチョコレートの製造・販売をスタートしました。

帯広という場所は、低湿で水・空気がきれいなことから、チョコレートを作るには最高の環境と言われています。

良質なココアバターと北海道のミルクをたっぷり使った滑らかな口溶けに仕上げたホワイトチョコレートは徐々に人気になり、1977年に札幌進出する際に千秋庵の暖簾を返上し、六花亭という新たな屋号で新たなスタートを切りました。

この時に登場したのが“マルセイユバターサンド”です。

六花亭という名前の“六花(りっか)は雪の結晶のことで、社名を変更するにあたって豊四郎さんは当時の東大寺管長だった清水公照さんに相談し、“北海道を代表する菓子屋になるように”という願いを込めて、北海道の代名詞である雪にちなんだ社名にしました。

そして、その目標は達成され、“北海道を代表する菓子屋”…いや、日本を代表するお菓子屋さんになりました。

このように歴史を噛み締めながらステキなお菓子やお料理を食べるというのも、あぁ~美味しい♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?