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この世に倣ってはいけない

ローマ書12:2

新共同訳
「この世に倣ってはいけない」
フランシスコ会訳
「この代に同化させてはなりません」
岩波訳
「この世と同じ姿かたちにさせられてはならない」
田川訳
「此の世にあわせた形をとらず」
新改訳2017
「この世と調子を合わせてはいけません」
口語訳
「この世と妥協してはならない」

まず「この世」なのか「この代」なのか。

フランシスコ会訳の注釈には

「この代」は、救いの歴史において、栄光のキリストにより、まだ公に支配されていない時代の最後の時期を意味し、世の終わりに臨んでいる現代を指す。パウロは「この代」を過ぎ去るものとみなす。

と書いてある。

また田川訳の注釈には

もっと直訳すれば
自分自身を此の世にあわせて形づくることをせず」

とある。

"アイオーン"という言葉で
時代とも、世界とも
訳されている。

パウロがこの代を過ぎ去るものと
捉えていたとするなら

現在(いま)私が生きている
この時代に合わせて
自分を形づくるな
ということ。

この世と理解するにせよ
この代と理解するにせよ

聖書が示す
神の価値、生き方、
イエスの品性とは
異なるのだと思う。

考えてみれば
この世/代に生まれた瞬間から
「この世/代」の価値、基準のようなものに
さらされる。

成長する過程において
親や周りの大人や子ども
メディア、書物、教育などなど
言ってみれば
この世/代の価値を取り込んで
自己を形成していく。

「私」とは
他者が作り上げているイメージで
自分が取り込んでいるもの
という部分があるのは否めない。

移ろい行く
この代/世の価値、
求められる像に
自分を合わせずに
生きていくことは
果たして
可能なのだろうか。

まだはっきりとはしていないけど
多分、「観想」が鍵になるような氣がする。

自分というものを作り上げているもの
一つ一つに氣がついて
壊してゆく先に
おそらく
「神の似姿」として造られた存在
神に愛されている存在
ただそれだけが壊されることなく
残るのではないのだろうか。

どうかなぁ。
違うかなぁ。

思い巡らし続けたいことが
また一つ増えた笑

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