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神学と生活

「神学」というと、敬遠したり嫌う人が多いように思う。でも、神学はキリスト者としては、避けられない。

神学=組織神学 ではない
三位一体とか、贖罪論とかというのは、神学の一つ。

私が学んだ北米のメノナイト神学校の牧師養成過程は、3年だけど組織神学は必須科目ではなかった。
神学はまなぶけれど、私は組織神学のクラスは修めていない。

実践神学のクラスが多かった。それも倫理。
神学は生き方だから。

人とどのように関わるか。
どのような政権を選ぶか。
あるいは政治には関与しないのか。
どのような職業に就くのか。
どのような仕事の仕方をするのか。
どのような食事をするのか。
お金をどう管理するのか。
性とどのように付き合うのか。
どのような買い物の仕方をするのか…

生活の全て、何を選択するのか、
どう生きるのかと考える。
聖書はなんと言っているのか。
キリスト者として、相応しい選択なのだろうか。

信仰とかけ離れた事柄は何一つない。

祈って、考えて生活する。
それが立派な神学だ。

そう考える中で、系統立てて、これこれについて考えることは、贖罪論とか、キリスト論とか、一見難しそうな名前がついていって、

一部の学者が議論すること、
みたいなイメージになってしまった。

とても残念に思う。

一人一人が
日々の生活の中で
キリストに従って生きるとは
どういう選択をすることなのか、
どういう生活スタイルで生きることなのか

時に一人で祈り考え、
時に信仰共同体(教会)の仲間と共に
祈り考えることは
神学している。

だから
生きている限り
神学していることになる。

そのために
仲間と共に聖霊の導きの下で
聖書を学ぶ。

そうやって生きていって
キリストの心が身についてくると
考えなくても
自然に御心にそった選択が
できるようになると
聖書は言っているのだと思う。

それを成長というのではないだろうか。

霊性の訓練
心の訓練
みたいな感じ。

それは
日々の生活を
キリストに聴きながら
丁寧に生きていくことなのではないのかなぁ
と思う。

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