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「何もしない」をするの難しすぎる

効率的な仕事!有意義な時間!計画的な人生設計!真面目な労働!

反吐が出るぜ!ウォ~~~~~~

現代の社会ではやれ効率的な仕事を行えだとか、通勤時間を有意義に!とか、人生を計画的に考えよう!みたいな思考が良しとされている風潮がありますよね。「する」ことが「しない」ことより良しとされている価値観ともいいましょうか。その結果、「何もしない」ことにモーレツな嫌悪感・無価値観を感じてしまう人ってものすごく多いんじゃないかと思います。

いや、そんなん当たり前でしょうと思っている人ほど、社会という集合的無意識にとらわれているんじゃないでしょうか。はい、私のことです。そういう人ほどサボっている人間を叩いたりサボることに嫌悪感を抱いてしまいがちですよね。私だけでしょうか。もしそうじゃなかったらつらいので嘘でもそうだねって言ってください。そりゃいくら効率がよくたって、意味があったって、やりたくないことはやりたくないですもん。責任やら理想やらをいい感じにキープしつつ「何もしない」を楽しめる人間羨ましすぎる。

私の場合、休みがあっても、過去の出来事やらこれからの出来事にとらわれて何かしなきゃ!と焦るだけで、結局何もしていない、結果を出していないのに1日が終わってしまい罪悪感を抱える毎日を過ごしています。

まあ何もしていないというのはウソで、1日4~5時間くらいは音楽を聴いているし、1時間くらいは何かの本を読んでいるし、2時間くらいポケモンで遊んでます。あれ、意外と「何か」している。でも、何もしていないと感じてしまうのは、何かしたことの評価軸がきっと自分でなく他人にあるからなんだと思います。自我がない人間は際してそうなりがち。他人からの評価を捨てれば自由になれるのかもしれませんが、他人からの承認とか査定を強く強く求めている私は、自由と他人からの評価どちらかを選べと言われたら他人からの評価を選ぶ気がします。他人からの評価なしで自我が確立できる気がしないもの。

あなたは、「他人からの評価」と「何にも縛られない自由」のどちらか一つしか得られないとしたらどちらを選びますか?





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