わたしと音楽3

私の音楽にまつわる思い出、記憶を幼少時からたどってみようのコーナーです。今日も前回のつづきです。日本帰国後半年くらいの話。

中3

 父のインドネシア駐在がおわり、人間がとっても多感な時期であろう中学三年生のときに日本へ帰国し、地元の中学校へ編入しました。今思うと相当なメンタルしてるなと思います。そこの中学校はなにかしらの部活に入ることが強制されていましたので、どうせ強制なら音楽部に入ろうと思い立ち、わたしは中学3年生の4月という超微妙な時期から日本のブラック部活の代名詞、吹奏楽部に足を踏み入れたのでした。入部後は、前まで管楽器やってたから吹けるでしょうという謎の期待を押し付けられ、ダブルホルンを借りて新歓演奏会から実践投入されました。早い段階からチームに加われるのはとても嬉しかったのですが、実力が周りの人にだんだんと露呈していくのがとても怖く(練習しろよ)、特に顧問の先生からは怒られるでもなく半ばあきらめの目で見られていたのがだいぶつらかったです(練習しろ)。

 夏ごろになると吹奏楽文化特有のコンクールとメンバー選抜というものがあったのですが、当然ながらメンバーから外されました。降り番ってやつですね。私が中途入団したせいでメンバーが既定の50人を上回ってしまったのもあるんだと思います(言い訳)。ちなみに外されたのはわたしと、ホルンの後輩と、夏休み中短期留学に行くせいで練習に参加できないことが分かっていたトロンボーンの陽キャ同期でした(副部長だったのに!)。夏休み中は音楽室でコンクール曲を練習している同期たちを尻目に、思いっきりサボってましたね。受験勉強もしてましたし、陽キャの彼女が学年の裏事情とかいっぱい教えてくれました。これ、全世界の降り番の人たちの株を下げてますね。ごめんなさい。

 でもずっとサボり倒してたわけではなく、先生がちょいちょい合奏に参加させてくれてたし、そもそも練習は欠かさず行っていたので(えらすぎ)奇跡的に友達を作ることができました。成人式で気づいたんですが、当時の吹奏楽部の友人はほぼ全員木管楽器だったんですよね。なんでだろう。

 コンクール以外の思い出としては、体育祭のマーチングの練習で裏打ちをしまくっていたらすっ倒れたり、文化祭の曲の合奏中に一人で吹かされて、(出来が悪すぎて)外に出されたりとかがありましたね。でもやっぱり音楽のことは嫌いにはなれませんでした。コミュニティとしての吹奏楽部も思い返してみればなんだかんだ好きだったような気もします。なんなんでしょうね。吹奏楽部の3年生は秋の文化祭で引退という形だったので実質半年くらいしか活動していなかったんですけど、この経験を通してバリバリ楽器演奏したいな.....という気持ちが急激に心の中に醸成されていきました。

とりあえずわたしと音楽管楽器編はここでいったんおわりです。次からいよいよ弦楽器ぱーとになります。長すぎでしょ

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