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心地よい違和感と共に、福祉領域拡張の道へ|大田雄之介

はじめまして。
2020年4月に入社したヘラルボニーの大田(@yunosuke_ota)と申します。

学校を卒業してから、国際物流の畑で生きてきました。今も大好きな領域です。ヘラルボニーでは、主に国内、越境ECの売上を伸ばすべく様々な施策を打ちます。同時に、売上で見えづらいSCMも担当します。その他にもミドル〜バックオフィスもやります。

本記事のアイキャッチは、副代表・文登さんの結婚式で友人代表スピーチをしたときの写真です。昨日、文登さんがFacebook上でこの写真をアップロードしていました。それまで僕はこの写真をシェアされておりませんでした。ヘラルボニーに入社したことで、とても素敵な写真をいただけて嬉しい気持ちでいっぱいです。

少し長くなりそうですが、文登との出会い、ヘラルボニーに関わるきっかけなどを書いていきます。

はじめての出会い編

僕は高校3年間、宮城県にある高校の卓球部に所属していました。決して強い部活動ではありませんでしたが、勉強と部活であれば2対8くらいの割合で部活動に取り組んでいたと思います。

代表の松田兄弟は、岩手県にある高校の卓球部に所属していました。同じ年で、隣の県ということもあり、県をまたいだ大会に出場すると、五厘・太眉・気合MAXの双子をよく見かけました。当時から東北内でも有名な選手でした。実際に試合で対戦することもあり、高校時代からお互いに面識がありました。(彼らの高校は厳しく、他校の生徒と話をするのもNGだったそう)

(左:崇弥 | 右:文登)
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(高校時代の僕)画像2

ふたりは、下馬評で格上と呼ばれている選手にも勝つことが多く、試合を見てるだけでも「何か起こるんじゃないか?」と、ワクワクして観ていました。
今となってはお互いロクに練習もしていないので勝ったり、負けたりする仲になり、全くワクワクしません。

高校最後のインターハイ予選も終わり、卓球の推薦で大学入学を目指すべく大学開催の「セレクション」に参加しました。(セレクションで良い成績を残すと推薦をもらえます。)

東北でも有名な人が多く集まっていました。
その中に、文登もいました。

結局、お互い推薦はもらえませんでしたが、ここで僕は文登に声をかけます。

「松田、俺に挨拶は?」

正直、まじで覚えてないです。でっち上げも良いとこ。文登本人は、はっきりとこんな親切な僕からそんなことを言われたというのです。言われた本人がいうのだから本当なんでしょうけれども。
当然、文登から崇弥にも「大田」ってやつ最悪。という話がいくのも当然でしょう。

その後、大学のオープンスクールに行ったときでした。大学の説明を聞こうと席に座ろうとすると、偶然文登が後ろに座っていました。なぜか目も合わせようとしないので、親切な僕は、「お!松田くん!」と声をかけました。(勿論、無礼を働いたことは覚えていない。) その時はじめて同じ大学、同じ学部を目指していることを知りました。

結果、文登は合格。僕は不合格。
正直、文登も不合格だろう。と勝手に予想していました。ごめんなさい。
僕はその後、別の学部に合格しました。

僕たちは大学でも卓球を続けました。一応、体育会系の卓球部に入部予定だったので、高校3年生の春休みから大学の部活動に参加していました。

そのとき、これから4年間一緒に過ごしていくことを知ったのです。

大学編

自慢できるような大学生活ではなかったのでほぼ割愛しますが、登山・国内旅行・海外旅行・飲み会・ゲームなどしっかり遊んだ4年間だったと思います。

たくさん思い出はありますが、今パッと思い浮かんだエピソードは、文登がバイクで自損事故を起こしたときです。
真っ先に電話をもらい、僕はすぐ車で駆け付けて病院へ送りました。
結果は、鎖骨骨折。治るまで相当しんどい生活だったことでしょう。

(僕たち2人がグローバルな大学生活を送っていたことがわかる1枚)
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社会人仙台編

僕は人一倍勉強したので、周りのみんなより社会人になるのが1年遅かったです。

入社して2ヶ月経った頃、地元の国内・国際の物流企業で働いていた僕は、税関に向かっている途中に電話を受けます。

興奮気味な崇弥からの電話でした。

「知的障害のあるアーティストのアート作品がすごい!社会に打ち出していくために一緒にやらないか?」

アートメゾンブランド「HERALBONY」の前身である「MUKU」のはじまりです。

福祉施設、アーティストとの契約もない。プロダクトを作るにもコネクションもゼロ。そもそもブランド名もない。

毎朝7:30から行われるSkypeミーティング。
試行錯誤の繰り返しで少しずつ形になっていきました。(※ここをしっかり書くと本当に長くなるのでまた後日)

自閉症とともに生きるラップアーティストGOMESSさんのMVをみんなで作った時もつい昨日のような懐かしさです。(撮影:岩手県花巻市)
トラックが出来上がった時もずっと車の中で聴いてましたね。

社会人東京編

宮城県産の僕は(仙台出身と言うと原産地ポリスが出てくるのでここは宮城県としておきます。) 、東京という大都会に特段大きな夢や希望はなく、仕事の延長という感覚で来ました。

気がつけば、文登と過ごす時間より、いつの間にか崇弥と過ごす時間が圧倒的に増えました。文登と電話すると、「崇弥と大田が一緒にいることに違和感がある」とよく言ってましたが、個人的には全く違和感はありませんでした。

2018年の年明け頃に崇弥が「100BANCH」に採択されるためにプレゼンしにいく!と話していたことをよく覚えています。同年2月に100BANCHと呼ばれる100年後の未来をつくる実験の場に「MUKU」として採択されました。

田舎くさい表現かもしれませんが、僕にとって100BANCHは「刺激が強すぎました」

100BANCHとは

100BANCH(ヒャクバンチ)は、パナソニックが創業100年を迎えることを機に構想がスタート。その後、パナソニック、ロフトワーク、カフェ・カンパニーの3社が手を組み、2017年7月7日、渋谷に誕生しました。

ここでは、常識にとらわれない野心的な若者達が、昼夜を問わず活動を繰り広げています。100BANCHのミッションは、そんな彼らとともに「つくりたい未来」「100年先を豊かにする未来」を創造すること。24時間365日実験の場を提供し、年間約200のイベントを開催、さらにはSXSWやSlush、CESなど国内外での活動の機会も設けています。

多種多様な実験を、100BANCHから渋谷の街へと滲ませ、世界に拡げる。そうして100を超えるプロジェクトと、100年先の未来の景色をつくっていきます。

成し遂げたいことがある。こんな未来をつくりたい。

100BANCHに集まる方々の熱量に多くの刺激を受けました。
今まで仕事とプライベートは全くの別物と感じてましたが、100BANCHの人たちと一緒にいると、「ワークライフバランス」より、「ワークアズライフ」の方が自分にとってもしっくり来るようになっていきました。

(緊迫した状態での打ち合わせ風景@100BANCH)スクリーンショット 2020-04-04 14.31.24

100BANCHでの実験として、障害のある方々と、「まちといろのワークショップ」を行いました。

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まちといろのワークショップとは

まちを歩くとたくさんのいろを見つけることができます。
信号の赤青黄、壁のグレー、お蕎麦やさんの食品サンプルの茶、
冬コートの黒、ツタヤ看板の黄、コーンのピンク、道路の際にあった緑。
まちによって色は異なり、人によって気づくいろも異なります。
まちを通していろを通して、自分と他者の視点の違いに気づくはず。
そして、同じ視点があることにも。
それが今回のワークショップの醍醐味です。
何をみるのか、どこを見るのか、さあ、みんなでいろを探しに行こう。

僕自身、障害のある方と交流をするのは中学生以来と記憶しています。半日一緒に過ごすという意味では初めての経験でした。

社会は、「障害者」という言葉を一括りにしがちな気がします。

障害者問わず、性格は人それぞれ異なる。
嫌な人は嫌だし、好きな人は好きです。

乱暴に言えば、障害者はかわいそうだから優しくしなきゃ。という同情は全く共感できません。

大切なのは、直接コミュニケーションを取り、どんな人なのか知ること。

まちといろのワークショップは、そんな時間を提供できる場でした。

Shippio編

東京編までヘラルボニーでの活動を書いてましたが、実は、前々職の物流企業に勤めながらの活動でした。言わば、土日の個人的な活動です。

やがて、ヘラルボニー、100BANCHでの活動を経て、自分が得意な領域で世界を変えるようなチャレンジがしたい。と思うようになりました。

国際物流のスタートアップ 「Shippio」という会社に出会います。SNS上でShippioの代表が、「増員検討中。」と呟いているのを見て、すぐに連絡をしました。

採用していただき、2019年1月からお世話になることになりました。
最初は、今まで通り土日はヘラルボニーの活動に充てようと考えていましたが、僕の力不足もあり、ヘラルボニーに割ける時間が減っていきました。直接崇弥に「Shippioに集中したい。」話をして、一旦おやすみにしてもらいました。

国際物流の業界を変える!と、意気込んで働いていましたが、僕自身の弱さで、1年と3ヶ月という短い期間で退職をすることとなり、Shippioの方々、前々職の方々、応援して下さった方々に対してご迷惑及び、恩を仇で返す形になりました。

退職を決めた後は、「アフリカに行こうか」いやいや、「通関士の資格をいかした新しいスタイルの会社をつくろうか」、はたまた「自分で物流の会社をつくろうか」などなど。

当時、周囲の方々にも「アフリカにいきます。」「自分で会社やります。」など話をしており、話すことが次から次へと変わり、自己嫌悪に陥ってました。

そんな中、2020年の年明けに崇弥と文登から0:00過ぎに1本の電話を受けます。

崇弥:今LINE送ったから見て!!

寝ていたので、目をこすりながらpdfファイルを開くと、組織図に僕の名前が組み込まれていました。

文登:また一緒にやるべ!!結婚式で友人代表スピーチしただろ!!

Shippioを退職することは崇弥と文登に伝えていました。
退職する経緯も話をしました。
別々に話しましたが、彼らは揃って「甘いな」と、温かくも、厳しい言葉をくれました。

そんな半端な自分でも、そんな甘い自分でも、また、「一緒にやろう。」と声をかけてくれたのが心底嬉しかった。
福祉の領域を拡張する「株式会社ヘラルボニー」を支えていくべく頑張ろう。と決めました。

1年と3ヶ月、短い期間でしたが、国際物流のスタートアップ 「Shippio」で素敵なメンバーに囲まれながら多くのことを学び、大変お世話になりました。

Shippioの退職が決まってから、最終出社日までの間、ヘラルボニーでの新しい挑戦を応援してる懐の深いShippioのメンバーをはじめ、前々職の方々、引き続き応援して下さる方々、改めてこの場を借りて御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。

ヘラルボニー編

2020年4月1日からヘラルボニーで働いています。
新型コロナウイルスが猛威を奮い続ける中、忘れられないリスタートです。

今は、ヘラルボニーという新しい船で株式会社ヘラルボニーが目指す夢を1日も早く叶えるための基盤づくりから、成長のために必要なことをやり切ります。

僕個人は、まちといろのワークショップの経験から、障害者と社会の接点を広げたい。接点を持つきっかけは、ワークショップだけじゃなくて良い。アート、メディア、プロダクト 。様々な手段がある。

まだ社会が知らない面白い福祉の領域を拡張し、カルチャー化する。
そして、日本全国のみならず、世界で戦っていきます。

正解の道を選ぶのではなく、選んだ道を正解にしていくために。
改めて、みなさまよろしくお願いいたします。

P.S.
Shippioの代表から「止まない雨はない。」という言葉をいただいたのを今でも鮮明に覚えています。この新型コロナウイルスが蔓延している状況も、必ず終わる日が来る。必ず晴れる日が来る。その日まで、できることを着々と、粛々と、淡々と、積み重ねていく。

大田雄之介


ロゴ① ヘラルボニー-logo-small (2)

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