台所ぼかし

かすかべ思春期食堂~おむすびの隠し味~【Page13】

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三、奥多摩で ①

 その日の朝、青梅のミズキの家の食卓で

「あの、お母さん、今日私、学校休みます。お父さんもお母さんも仕事で忙しいでしょ?ありささん、一人になっちゃうから……」そう言うミズキにありさが慌てて片手を振りながら

「ミズキちゃん、あたしは大丈夫だから。ほんと、ほんと。学校行って!」

 陽子は

「今、インフルエンザの予防接種でたくさん来るから、ここに一緒にいてあげられないけど、お昼は一緒に食べられるし、診療所は目の前だし、おとといのことも事件じゃなかったし……」

「そう!大丈夫、一人で静かにしてるから。お留守番、お留守番」

「そうね、ありさちゃん、リビングでテレビでも観て、何かあればすぐ診療所に来てね。ミズキは心配しないで学校に行きなさいね」

「あたし、食器洗いとか洗濯とか掃除とか……やっておきますから、足ももうそんなに痛まないし。陽子さん、気兼ねなくお仕事に行ってください!」

「あらあら、お手伝いはうれしいわ……今日はそれじゃあ、食器洗いと洗濯物をたたむのをお願いしますね。乾燥が終わったら、そこでたたんでね。ありささんが着てきた服も洗ってありますから」

「はーい」

「ありささん、私4時半ごろには帰ってきます。それじゃあ、行ってきます」

 ミズキは笑顔で皆が出ていくのを見送り、キッチンで洗い物をしていると、ピピーっと洗濯機の鳴ったのを聞きつけ、今仕上がったばかりのホカホカした洗濯物を取り出し、リビングのソファに腰かけ、一つ一つたたんでいきました。小さなころから施設で育ち、ハルの下宿屋に入居してからも、食事の支度や片付け、掃除洗濯、身の回りのことは自分でしてきたありさにとってはなんでもない作業でしたが、他人の家族の家の中でしているということは、なにかくすぐったいような気分でした。

 洗濯物をたたむのも早々に終わってしまい、リビングのテレビをつけてみましたが、いつもほとんどテレビを見ず、一人の時間のあるときにはケータイで好きな音楽を聴いたり、動画を見たりしてすごしていたありさには、がやがやしている朝の情報番組はなんだか耳に入ってきません。

「あ、そうだ、ケータイ、充電しないと」

 部屋に戻り、バッグからスマホを取り出しコンセントにつなぎました。

 充電しながら電源を入れてみると、たくさんのメール、LINE、着信。

 それらを開いてみると、夢の中のような気がしていた昨日、一昨日の出来事が、まざまざとよみがえってきました。

 姉とのけんか、叔父の家での待ちぼうけ、ナンパされて連れていかれそうになったとき、助けてもらったおじさんに車に乗ったこと、そのおじさんが怖くなってコンビニに逃げ込み、そこから真っ暗な道を走って走って逃げたときの恐怖、行き止まりの川に出て転倒……もう終わりだと思ったこと……そこがミズキの家の近くでなかったらどうなっていたんだろう……

 急にそのときの恐怖を思い出したありさは膝ががくがくと震えるのでした。そして開いていたカーテンをジャーッと閉め、ベッドの脇で膝を抱えて座り込みました。薄暗い部屋で膝を抱えているといっそう一昨夜川辺で震えていた時の不安や恐怖がよみがえり、胸がどきどきしてくるのでした。そして、はあはあと息が荒くなってきました。

(ヤバい、また過呼吸になりそう……)

 自分で予感したありさはすくっと立ち、まだ少し膝ががくがくするのを感じながら玄関を出て庭でつながっている診療所に向かいました。一昨日の夜ここにきて、昨日もずっと室内にいたありさには外の景色も初めて見るものでしたが、それを見る余裕はありません。

 診療所のドアを開けると、誰もいなかった一昨夜とはうって変わり、待合室にはたくさんの人がいてざわざわしていました。受付のカウンターにはナース姿の陽子さんが誰かの名前を呼びあげています。

「倉田さーん、西野さーん体温測りましたかー?はい、富永さん、中へ入ってくださーい、富永さーん、あらどこか行っちゃったかしら」

 待合室に出てきた陽子はドア近くで立っているありさに気づき、駆け寄って

「ありさちゃん、大丈夫?何かあった?」

 ありさは首を振って

「大丈夫です。ちょっとここにいてもいいですか?」

「いいわよ。あ、ごめんなさい、村野さん、ちょっとお席詰めてくれる?はい、ありがとう。ありさちゃん、ここに座って、具合が悪くなったら声をかけてね」と待合室の長椅子の端にありさを座らせました。

「すみません」

 ちょこんと頭を下げて座ったありさに、隣に座っている村野さんと呼ばれていた高齢の女の人が

「あら、お嬢ちゃん、どこか悪いの?予防注射?」

「あたしは、え~っと、あ、転んで足をうっちゃって……」

「あたしもね、この間台所で転んじゃって、起き上がれなくって、じいさん呼んだらね、じいさん、来たのはいいけどね、おいお茶はまだかいっ、おい、どこにいるんだいって、居間に戻ろうとするの。あたしを助け起こしもしないで。あたしは頭に来たから、じいさんの足をぎゅうって掴んでやったの。そしたらじいさん、びっくりして、転んじゃって、あたしが助け起こしてやったのよ。そんな調子だからうかうか病気にもなってらんない、だから予防注射うちに来たの。でも今日は混んでるねえ。じいさんの昼作ってやらないと、またひもじくて死にそうだとかうるさいんだから」

「あはは、おじいさんは大丈夫だったんですか?」

「たいしたことないのに、痛い痛いって大騒ぎよ。いつも偉そうなこと言ってるけど、男ってのはいくじがないんだから」

「村野さーん、中へ入ってください」と呼ばれ、おばあさんは

「じゃあね、お大事に」といって診察室に入っていきました。

 空いた席に今度は2、3歳の幼児を抱っこした女性が座りました。一番かわいいお年頃の子なのに、何やら怒っているようで、機嫌が悪く、ぐずりながらママの膝から滑り落ちて床に顔をつけて泣き叫んで、静かにしなさいとまたママが抱き起しての繰り返し。なだめたり叱ったりに疲れたママもイライラして、手を放してしまいました。

 ありさは、床にぺちゃんとへたりこんで今から大泣きするぞとばかりに大きく息を吸い込んだ子のお腹のあたりをこちょこちょっとくすぐりました。驚いてこちらを見た子の顔に自分の顔を近づけて変顔をしながら、さらに、お腹や腕や首などあちこちを「こちょこちょこちょ~!」っと言いながらくすぐりました。子どもは目をつむって「あひゃあひゃあひゃ」と笑いながら体をゆすっていましたが、ありさが手を放したころにはもうすっかり泣くのを忘れた様子。ありさはにっこりしてから

「トントントントン、ひげじいさん、トントントントン、こぶじいさん♪」

 手遊びしながら歌うと、その子もいっしょになって

「トントントントン、てんぐさん♪」

 近くにいた数人の子どもも集まってきて

「トントントントン、めがねさん、トントントントン、手は上に」

「トントントントン、手はおひざ~♪」

  三、奥多摩で② に続く




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