台所ぼかし

かすかべ思春期食堂~おむすびの隠し味~【Page23】

   前ページへ   目次へ

 四、ありさの決断 ④

 (不毛な言い争いって……あたしがカラコン入れてないって言ったのを先生がちゃんと信じてくれれば……そのあとしつこく何回も言ってこなければ……それで済んでいたのに……)

 ありさは言い返したい気持ちでいっぱいになりましたが

(また言い返せば、そっちが悪い、いやそっちが悪いって……それこそ不毛な言い争いになる)

 ありさが踵を返してこの教室を出ていこうと思った瞬間、何故か、奥多摩の診療所で出会ったお年寄りや子どもたち、総合病院で話しかけてきた入院患者の人たちの顔が頭に浮かびました。それぞれの心身の悩みに寄り添う医師や看護師の姿も浮かんできました。

 ありさは両方のこぶしを握り、高村に背を向けたまま、いつもより低い声で言いました。

「それなら、まつげが濃い人はまつエクと間違われないように濃いまつげ証明書が要りますか?」

「え?なんだって?藤崎、何言ってるんだ?」と高村。

 教室の中からは「濃いまつげ証明書だってさ、あははははー」と笑い声が起きます。それから口々に

「じゃあ、ストパーと間違われないように、直毛証明書とか~」

「お前なんか剛毛証明書だろ」

「ふざけんなよ、そんならお前は薄毛証明書が要るだろ」

 高村はバン!と机をたたき、大きな声で

「おい!静かにしろ!校則で化粧は禁止になっているんだ。それから眉毛をそったりして顔をいじるなということ。それが基本なんだ!」

 一同が静かになる中、ありさは高村に向きなおり

「これは先生にまじめな質問なんです。目の上に青あざがあって、それがアイシャドーと間違われて嫌なら青あざ証明書が要りますか?青あざのある自分の顔を見るのが辛いからメイクで隠したら校則違反ですか?母親がケニア人で顔が黒いのは日サロで焼いてませんて証明が要りますか?髪が縮れていていじめられた経験のある子が縮毛矯正している証明書が要りますか?抗がん剤で毛が抜けた人がかつらをかぶってくるなら抜け毛証明書が要りますか?本人が隠しておきたいようなことを、顔をじろじろ見て暴く必要があるんですか?」

 低かったありさの声は低さはそのまま徐々に音量が増し、迫力が加わりました。まっすぐに高村に向けられたありさの目は涙で潤んでいました。

 教室はシーンとなってありさの発言を聞いています。高村は自分に向けられた予想外の言及にいささかたじろぎ、さっきまでの強さは消え

「おいおい……そういうことじゃないだろ?」

「先生、生徒は先生に質問をしていいんですよね。疑問に思うから質問しているんです。答えてほしいんです」

 その時教室のドアが開き、学年主任の豊田が入ってきました。担任代行初日の高村の様子を見に来て廊下で聞いていたのでした。高村に代わって教壇に立ち、ありさに「藤崎、席に着きなさい」と指示し、続けて話し始めました。

「校則の禁止事項にはちゃんとした理由があります。学校は勉強をしに来る場所なのだから清潔を保つ以外に外見を飾る必要はありません。経済的な状況もいろいろある中で、外見を競うようなことは望ましくありません。若い時期は肌も本来の美しさを持っているのだから、それで十分です。また、その日の健康状態を見るにも素顔でなくてはわかりません。その基本をしっかり理解するなら細々した質問は要らないでしょう。一つ一つの質問に答えていたら時間がかかるだけじゃないですか」とみんなに向けて言ったあと

「今言ったこと、理解できるだろう?……えっと……う、上田」

 豊田は同意を求めようとして一番前の男子生徒の顔を見ましたが、名前がわからなかったので、机に貼ってある座席表を確認してから名前を呼んだのでした。

 いきなり指名を受けた上田はびくっとして固まりました。握った両方の手を膝の上に置き肘を突っ張らせたまま豊田を見て、同意するかと思いきや

「あの、僕はこの学校に来て今日初めて先生に話しかけられました。今まで担任の先生からも話しかけられたことはありません」

 クラスの生徒も上田の声を聞くのは初めてという感じでした。上田はクラスの中で発言したり誰かとしゃべったりする声を発したことがなかったのです。

 上田は続けて

「先生は目立つ人にしか話しかけません。僕は空気みたいな存在……いや、空気なら必要とされるけど、僕は……いてもいなくてもいい存在と思われてます。それでも毎日休まずに学校に来てます」

 それを聞いたしおりは家での自分のことだと感じ、思わず口を両手で覆いました。

「僕は体調がよくない日でも毎日学校には来てます。吐き気がする日でも……でも、先生が僕の顔色を見て健康状態をチェックして、具合を気にかけてくれたことは一度もありません。僕の家は母子家庭で、経済的に塾に通える余裕はないし、家に帰ればバイトと妹の世話があるから、勉強でわからないことはなるべく学校で解決したいです。質問ができて答えてもらえるならもっと勉強がわかるようになると思う」

 ゆいも自分と同じだと感じ、うんうんとうなずきながら聞いていました。

「いや、上田、それは違う話で……」と豊田が言いかけたとき

「わからないことを質問するのはいいことじゃありませんか」

 いつの間にか教室に入っていた物理の講師、浪岡がにこにこしながら言いました。あちこちで「アインだ、アインだ」と、この物理講師のあだ名がつぶやかれました。初老の白髪のぼさぼさな感じと物理という教科からアイン‣シュタインを連想させるのでした。

「僕の授業、みんな寝てるか起きてるかわからない中でやるよりはね、関心を持って聞いて、疑問に感じたことを質問してくれればね、僕も一生懸命答えるし、僕もわからないことがあったらまた調べてきてね、いい授業になります。そうだ、僕の授業終わりの10分間は質問タイムにしますよ。その代り、前40分は寝ないでしっかり聞いてくださいね。ははは。それから、高村先生、他の先生にもそうお願いしてはどうですか?」

「いや、各教科担当にはそれぞれ授業の進め方がありますから……」と高村。

「いいじゃありませんか、聞いてみるだけなら。もしだめなら君たち生徒が先生を質問攻めにすればいいんですから。あはは。それではもう授業始めてよろしいですかな?」

 外のグランドからは「エッサ!エッサ!」と準備体操の掛け声が聞こえてきました。

「あっ!もう1時間目始まってる!」高村と豊田は慌てて教室を出ていきました。

 四、ありさの決断⑤ に続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?