見出し画像

ロールプレイングゲーム

「じゃあ、これで」―――これが、専務の佐久間が私に投げ掛けた最後の台詞だった。秘書として数年間、毎日一緒に過ごしたというのに、結局最後まで、私は彼の心の奥底に触れることはなかった。エレベーターの扉が閉まるまで、私は深々と頭を下げて佐久間を見送った。

佐久間という男は、部下への思いやりもなく、ビジネスのセンスもなく、ただほんの少しばかり人より気が利くだけで、のし上がってきたような男だった。社長に同行する海外出張では、現地駐在員に先回りしてチェックインをさせ、喉の弱い社長の為に加湿器のセットを命じたり、到着の瞬間にホテルレストランからコーヒーを届けさせたりすることで有名で、私たち秘書の間では、陰で「OMOTENASHI」と呼ばれていた。

徹底して上だけを見ているその姿は、慣れてしまえば、むしろサラリーマンとして清々しい生き方のようにも思え、どうということもなかったが、私がどうしても許せなかったのは、専属運転手の衛藤さんに対する高圧的な態度だった。毎日毎日、きっちり口角を上げ、静かに丁寧にハイヤーの扉を開ける衛藤さんの顔もロクに見ず、むしろその手を押しのけるようにして後部座席に乗り込む佐久間の姿を見るのが、私はとても辛かった。

一番イヤだったのは、東日本大震災、いわゆる3.11の晩だった。会社の入っている高層ビルはぐワングワンに揺れ、被災地から遠く離れた東京も、不安に包まれた、あの夜。都心はどこもひどい渋滞だと分かっていたので、麹町に住む佐久間に、私は徒歩で帰宅することを薦めた。だが、佐久間は一言、こう言ったのだ。「こういう日に歩いて帰ったら、まるで自分の足が確保されていないクラスの人間のようで、どうもイヤだね。それに、東京の道路が壊れてるわけじゃない、津波が来てるわけでもない。衛藤に送らせる」

後から衛藤さんに聞いたところ、徒歩でも1時間以内で着く距離を、車で6時間かけて帰ったという。その間、佐久間はただじっと目を瞑り、ラジオから流れる地震情報を聞いていたそうだ。衛藤さんの帰りはどうしたのかと聞く私に、彼は「いえ、私のことは、どうでも」とだけ言って、浅黒い顔に浮かぶ皺をくしゃっと深くさせただけだった。

車寄せの警備員から電話が来た。「すみません、運転手の衛藤さんが来ないんです……。こんなことは今まで一度もないもので、慌てて電話をしたのですが、連絡が取れません。そこへ佐久間専務が降りていらして。衛藤さんが来ないと言ったら、ああそう、とだけ言って、歩いて出て行かれました」

警備員のあまりに焦った声を聞きながら、私は「あ、衛藤さん、最後にやってくれたな」と思った。佐久間が完璧なサラリーマン役員であるならば、衛藤さんは完璧な黒子の運転手で、会社は巨大なロールプレイングゲーム―――そう思っていたけれど、そのゲームにも稀にバグが生じるのだ。きっと衛藤さんは、これまでの佐久間に対する恨みを、「最終日に迎えに来ない」という手段をもって復讐したのだ。「自分の足が確保されている」ことが、自分のステイタスの高さと信じている男に、これ以上ない仕打ちだ。

衛藤さん、やるじゃない―――清々しい気持ちと共に、あれだけ責任感の強い衛藤さんが、そんなことするだろうか?という疑問を持ちながら、会社のエントランスを出ると、階下に見慣れた黒塗りが見えた。私に向かってライトを何回か点滅させると、中から衛藤さんが出て来た。

「今夜は、ご自宅までお送りさせて頂きます。佐久間専務から、そう言いつかっていますので。あの子はいつも高いヒールを履いているのに、毎日電車を三本も乗り継いで通勤してるんだ。今日は、自分という嫌味な男の面倒を何年も見てくれた最後の晩だ。せめて楽をさせてやりたい。そうおっしゃっていました」

そんな、バグ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?