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東京ネイビーコレクション

「東京ネイビーコレクション」―――私の部屋のクローゼットの名前だ。

小さい頃から、好きな色は?と聞かれたら「ネイビー」と即答してきた。だから、私の部屋のクローゼットの中身は、東京中のネイビーを集めたかのように、微妙に深味の異なるワンピースやニットが、グラデーションを描いている。

「女の子なんだから、もっと鮮やかな色を着たらどうなの?あなたの恰好は、まるでスクールガールじゃないの」と、40を過ぎてなおも未婚の娘に、母は時折お小言を言う。けれど、美しくも厳しいネイビーという色を身に纏う瞬間ほど、女として高貴な気分になることはない。

三月も半ばだというのに、今朝の空気はひんやりとしている。そして、今晩はこれといった予定もない。私は、エイヤッと、薄手のざっくりとしたニットをつかんだ。体の線も出ず、首をすっぽり入れれば2秒で着られる楽チンな代物だ。
けれど、私は何となく思い直し、一旦手に取ったそれをハンガーに戻した。そして、何重ものフリルが襟元にあしらわれたシルクのブラウスを手に取った。気の張る人と会う日に着て行くと、必ずと言っていい程、「いいわ。とても素敵な深いブルーね」と誉められるお気に入りの一枚だ。

そしてその晩も、そのブラウスは称賛を浴びることになる――
「素敵ね、そのネイビー。昔からあなた、制服もとてもよく似合ってた」

今、私は高校の同級生である美奈と二人、渋谷のイタリアンで向かい合っている。
今晩は、東急東横線渋谷駅の地上営業最後の日だ。帰り道、いつものように銀座線の階段を下ると、異様とも言える人混みに驚いた。それが、今日で姿を消す東横線の地上ホームと、停まっている始発電車の姿をカメラに収めようという人々だと気付いたのと同時に、私は改札の外で一人、カメラを向けることもなく、ぼんやりとホームを見つめている美奈を見つけたのだ。

渋谷の街と美奈―――この組み合わせは、私にとって、ネイビー色の埃くさい制服を着ていた頃の苦い記憶そのものだった。それでも私は、思い切って美奈に声をかけた。それは単に「同級生同士の再会」ではない、「あの頃の私」と「今の私」の再会でもあった。

私と美奈は、都内でも屈指のお嬢様学校と言われる女子校に通っていた。といっても、美奈は付属幼稚園からの生粋の内進生、私は高校から受験をして入った外部生だ。
そして、時は80年代後半―――渋谷駅周辺にはチーマーと呼ばれる集団がいて、私立の男子校や女子校の中でも、不良っぽい子たちが集まって、夜な夜な遊んでいた時代だ。
「美奈って、放課後に渋谷駅のトイレでファンデーションと真っ赤な口紅とアイシャドーを塗ってね、他校の男子や大学生なんかとも一緒に遊んでるんだって」と、私たち地味な外部生はニキビ顔を突き合わせ、嫌悪と嫉妬の混じったため息を漏らしたものだ。

ある日の帰り道、渋谷駅の改札で、後ろから美奈が声を掛けてきた。私は心臓が破裂しそうになるのを押さえ、「ごきげんよう」と、私たちが当時、学校から推奨されていた挨拶を口にした。
美奈は大きな口を開けて笑い、「ごきげんようもいいけどさ、今からちょっと付き合ってくれない?」と、困惑しきった私の手首を掴み、改札の横にあるトイレへと入って行った。
そして、「これ、使っていいよ」そう言って、小さな化粧ポーチから、ファンデーションのコンパクトと口紅を鏡の前に並べた。私はもう、全身が固まってどうしようもなかったけれど、あの美奈にじっと覗き込まれていることに耐えられず、おずおずと口紅のスティックを手に取った。

「ファンデーションは、いいや……」私は、真っ赤な口紅を、唇の真ん中にちょんちょんと乗せ、指で全体に広げた。その時はそれが精一杯だったし、何より一刻も早くこのトイレの外へ出たかった。
「もっと、ちゃんと塗ろうよ」驚くことに美奈は、自分の指で口紅の表面を掬い取ると、私の顔を覗き込み、デパートの化粧部員のように、丁寧に塗り込んでくれた。「ンパッってしてみて」と言うので、私は仕方なく上唇と下唇を合わせて内側に押し込み、そして再び開いた。美奈は私の眼鏡を外すと、学校では見たこともないような笑顔で、手を叩いた。「ほら、可愛い。あなたって、絶対に大変身するタイプだと思ったんだよね」そして再び私の手首を引っ張って、スクランブル交差点へと駆け出した。

当時のセンター街は、今よりも何倍も猥雑な雰囲気で、それでも美奈は、物慣れたようにぐんぐんと歩いて行った。途中、何人もの知り合いと思われる男とすれ違ったが、彼らは美奈に目に留めると、一様に、おっという表情を浮かべ、次の瞬間には、ねっとりとした熱のこもった視線でじっと見つめてきた。私は今まで、一度だってこんな目で男の人に見られたことはない。なのに、美奈は、そんな視線を楽しむように無視して歩いている。学校とは別人の美奈の様子に、私は今まで経験したことのない、身の置き所のない不安に襲われた。これからどこへ行くの?何をするの……?
美奈が細い路地を曲がろうとした瞬間、我慢の限界が来た。「ごめん、やっぱり帰る……」そう言って、私は美奈の手を振りほどくと、一度も振り返ることなくセンター街を逆走し、東横線の車内へと駆け込んだ。ドアが閉まると、誰にも見られないように下を向き、ティッシュで必死に唇を拭った。あぁ、助かったと思った。
それ以来、私と美奈は、学校で会っても一度も話すことなく卒業した。

あの美奈と、渋谷のイタリアンで向かい合っている―――
この現実に、息も出来ない程なのに、私は意外と冷静だった。久しぶりに会った女同士が必ず行う儀式、つまりは、髪の毛の艶や、肌の張り、目元のシミのチェックだってしっかりと行った。美奈は、昔から、ハーフでもないのに欧米人のようなサラサラとした細い栗色の髪の毛をしていた。肩の線に付くか付かないかという長さで切り揃えられたボブと、漆黒のマスカラ、そして鮮やかな深紅の口紅は当時のままだ。斜め上を向いて、タバコの煙をふんだんに吐き出す姿は、やっぱり今でも、私と美奈では生きている世界が違うことを示しているようだった。

「お飲み物はどうされますか?」ウェイターがやって来て、私にメニューを渡した。美奈は「任せます」というジェスチャーをしたので、私はソムリエを呼び、美奈の好みを聞きながら、ブルゴーニュの赤を選んだ。ワインが注がれると、美奈は、これまでの間に身の上に起きたことを、ぼそぼそと語り出した。

大学在学中に、付き合っていた恋人の子供を身ごもり、学生結婚をしたこと。そのことに激怒した父親には勘当同然の扱いを受け、四谷の外れにあるアパートで新婚生活を始めたこと。その後、無事に女の子が産まれたが、旦那がよそに女の人を作ってほとんど帰って来なくなり、離婚をしたこと。その際、ある事ない事言われて、娘まで旦那に取られてしまい、今は一人暮らしをしていること。「なんかもう、ここ数年は完全に心が閉じちゃった感じ」なのだそうだ。

私は私で、未だに実家暮らしをしながら、地味なOL生活を送っていること、恋愛も幾つかしたけれど、結婚までには至らなかったことを話したが、ドラマティックな美奈の話の前では、いかにも抑揚がなく、つまらない。女の人生というのは、久しぶりに会った友人に対し、会わなかった間にいかにドラマティックな出来事が身に降りかかったかを語れるかどうかにかかっているんじゃないか……そんな思いが胸をかすめ、何だか悲しくなった。
「でもね、私、今日、自分で自分に驚いているの。だって、私、今は美奈がちっとも怖くない。昔、あんなに怖かった渋谷の街も、全然怖くない。」
美奈はタバコの煙をふかしながら「当たり前じゃないの、私たち、もう40なのよ。あなたって相変わらず面白いわね」そう言って、私の顔を覗き込んだ。

「ねえ美奈、口紅を見せて」怪訝な顔をしながらも、美奈は化粧ポーチからスティックを取り出した。「塗ってみてもいい?」美奈が軽く頷いたので、私はスティックの下をクルクルと回した。青味も黄味も一切入っていない、「深紅」としかいいようのない赤色が顔を出した。私は指で、そっとその赤を掬い取り、上下の唇に広げてンパッをしてみた。コンパクトを取り出し見てみたが、そう悪くないようだ。
「全身ネイビーに赤い口紅。あなたには、一番それが似合うかもよ」美奈は、嬉しそうに微笑んだ。
「私、あの日、あんなに怖かった赤い口紅も怖くない」
美奈は、呆れたように再びタバコの煙を吐き出しながら言った。「また、それ? でもね、私だってあの日あなたが逃げて行った時、やっぱり怖かったのよ」 

「え……?」
「あなたって、毎日、お母さんが作った綺麗なお弁当を持って来て、真面目に勉強してた。何より、ネイビーのかちっとしたセーラー服が似合ってたわ。あなたはきっと、これからも真っ当で幸せな人生を歩んで行くんだろうなって。私の家は、お金はあったけど、両親は体面の為だけに籍を抜かない仮面夫婦だったし、お弁当はいつも家政婦さんが作ってた。夕飯だっていつも一人。だから、家に帰りたくなくて、それでいつも渋谷にいたの」
「そう、だったの……」
「だから、あなたが私の手を振り払って、渋谷駅に走って行くのを見た時、あぁやっぱり、あなたと私の間には、目に見えない、大きくて深い川が流れてるんだなって思った。私は川のダークサイドを歩いていて、あなたの歩いている明るい反対岸には、決して行けないんだって。だけどね、やっぱりあの頃が懐かしくて、あのホームがなくなっちゃうのが悲しくて、今日は勇気を振り絞って、目に焼き付けに来たのよ」

それから私たちは少し酔っ払い、そして渋谷の駅前で別れた。連絡先も交換しなかったし、この先、SNSでもつながらないだろう。

あと十年も経てば、渋谷駅周辺の再開発は完成する。目隠しをされた人がいきなりその場で目を開けたら、そこが渋谷だと分かる人はいないと言われるくらいの変化を遂げるらしい。
その頃、私は再び、美奈とこの街で出会うかもしれない。その時こそは、ドラマティックな出来事を語れるような人生を送っていたい。

翌日、私はデパートで、黄色いワンピースと赤い口紅を買った。変化は少しずつ、だ。
もうすぐ、春が来る。

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