裸エプロンは、ロマンかヘンタイか

男のロマンは、女にはどう見える?

友人のカフェに行き、

「変態って、どこからだと思う?」

などと尋ねたときに、裸エプロンの話になった。

常連の男性客が、お酒を飲みながら

「裸エプロンは、男のロマンだ」

ということをポロっと口に出したらしい。

ちなみに、カフェを運営している友人は女性である。
彼女は、カウンター越しに

「何それ、意味が分からない」と思ったそうだ。

まぁ、男女の視点、感覚の違いと思えば、ごく当たり前だ。

視覚で興奮するのが男

「裸エプロン」という単語から、どんな印象を持つか。

それは、男でも女でも「アリ」か「ナシ」かだろう。

友人が「なぜそうなのか、意味が分からなかった」というので、
こう説明した。

  • 仕事で疲れて家に帰る

  • 可愛い恋人、奥さんが「おかえり」と出迎えてくれる

  • 「お風呂にする? ご飯にする? それとも、私?」と
    ちょっと恥ずかしそうにしながら、裸エプロンでお誘いしてくれる

  • 元気&ヤル気MAXになる=疲れが癒される

まぁ、王道のセクシャルファンタジー、性的な願望である。

「あ、そういうこと」と友人も納得した。

「なんで、裸の上に下着や水着じゃなくて、エプロンなのかが意味わからなかった」

そりゃそうだ。脈絡のないのが「男のロマン」と言われるセクシャルファンタジーだもの。必然性とか意味とか求めてはいけない。

セクシャルファンタジーはすべてヘンタイなのか

では、英語で「日本のアダルトコンテンツ」を
hentai
とひとくくりにされているのは、どうだろう?

セクシャルファンタジーというのは、誰もが持っている当たり前の願望だ。

ここで、

「私はそんなこと無い!」

と強く反発する人もいるだろう。うん、それで良いです。
でも、セクシャルファンタジーって、少女漫画もそうですよね?

ちょっとドジでごくフツーの主人公が、何故かイケメンで人気者の彼に愛される。

これも、セクシャルファンタジーなんです。だって、「異性との恋愛に求める願望」ですから。

一時期流行った「壁ドン」だってそうだ。
優しい幼馴染と、むかつく同級生にちょっかいかけられる。
これも、「異性に求められたい」という性的な願望である。

性的なものに対する「正しさ」

じゃあ、何故、男性の「男のロマン」的なセクシャルファンタジーは、ヘンタイ呼ばわりされて、女性の「少女漫画的なご都合主義」は受け入れられるのか?

それは、皆、自分のセックスに自信がないからである。
自信がない、というか「正しい性行為」とは何か知らない、わからないから、というのが事実だと思う。

私は、人生で最も大切なのに、学校ではちゃんと教えられない3つのものがあると考えている。

お金、健康、そして、性に関すること。

生き物として「正しい性行為」とするなら、

男性と女性が性器を結合させて、生殖細胞同士が受精して妊娠に至ること、

しかない。

そこに、愛情だの、快楽だのは不必要だ。
子孫を繁栄、遺し、殖やすということを「正しい」とする場合なら、
人間以外の動物、植物、すべての生き物の生殖活動がそうだ。

だけれども、

人間には、五感とこころ、感情がある。
生存本能だけでは動けない生き物なのだ。
それが、性に対しての「善悪」「倫理観」「ありなし」に通じている。

女性が男性のもつ「エロ願望」に対して、

「ないわ~」

と拒絶するのは、別の感覚を持っているから当たり前のこと。

男性が少女漫画や宝塚などの「オトメの夢」に対して

「無理無理無理」

と理解できないのも、異性に求めている優先順位が全く違うからだ。

そして、育った環境が違えば「スキキライは否めない」のである。

英語圏、ヨーロッパやアメリカはキリスト教文化圏だ。
もっと言うと、アラブ地域はイスラム文化圏だ。
日本文化は宗教という感覚が、ゼロではないが、キリスト教文化に比べると控え目である。

宗教的価値観、倫理観もセクシャルファンタジーに大きく影響する。

だから、英語で
hentai = 日本のエロコンテンツ
という表現に至ったのも、あるだろうとおもうけれど、
その話はまた別の機会に。

みんな違って、みんな良いだとなればいい

じゃあ、彼氏やダンナが
「お願いだから」と頼み込めば、裸エプロンすればいいのか?

彼女や妻が「こういうのされたい」とおねだりしたら、
歯の浮くような気障な言葉で愛を囁けばいいのか?

そこは、二人で話し合えばいいと思う。

恋愛対象に対して、「こうであってほしい」と望むのは当たり前の欲だと思う。

そして、相手が「こうして欲しい」と思うことを叶えたい、と受け入れることも、愛情表現の一つの形だと思う。

ただし、それは「本人同士の合意」がある場合だ。

相手と自分は別人だということ

今の世の中、情報も刺激も多すぎる。
だから、20年前よりもみんな、疲れているし、

「このくらい我慢したら、丸く収まる」

という感じで、スルーするスキルも上達している。
既読無視とかもそうだ。

良くも悪くも、「鈍感力」が強くなっている。

だから、

自分と相手は違う感覚を持っている

という当たり前のことをつい、うっかり見失ってしまう。
家族や友人、恋人という深い関係性であれば、尚更だ。

ちりも積もれば、山にもなる。

性的な関係だけには限らないけれども、
すべての人間関係は「合意」「相互理解」の上にある。

相手に求める願望は、人それぞれだし、
ある特定の相手だからこそ求めたくなる願いもある。
それが「愛されたい」「愛する」という気持ちだと私は思う。

生き物だから、愛の延長上に「触れたい」「触れられたい」というスキンシップの時間を持つのも、生存本能の仕業である。

ヘンタイか、ロマンか。

結局は「受け入れられるか」「理解できるか」だと思う。

皆、欲しいものはそれぞれだし、
好きなものもそれぞれだ。

みんな違って、みんな良いとなれば、争いは起きない。

だからと言って、「我慢」する必要もない。

自分と相手は違う、そのうえで、どこまで認め許し受け入れられるか。

たった、それだけだと、裸エプロン一つとっても、思う次第である。



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