祝祭の呪物展鑑賞後に考えた事(呪いについて)

 “呪い”とはなんだろうと考えると“呪ったからあいつに不幸が訪れた(或いは訪れてほしい)”と“呪われたから不幸があった(或いはこの先あるだろう)”だけで呪いそのものに実体は無いのではないか。人に恨まれる事したり、お地蔵さんに蹴り入れる等といった呪われたと感じる事をしないのが呪いから身を守る唯一の術だと思う。また、不幸があると直近の不吉な事を思い出してそれを原因とする人間心理も、自分で自分を呪われた事にする一種の呪いではないか。
 ここまで書いてて気付いたのが、自分が実践しているジンクス(以下に記す)に上記の自分で自分を呪われた事にする呪いから身を守る効果があったのではないか。
 縁起の良いものを歓迎して、不吉なものを忌避するのが普通だけど、不吉とも親しんでおけば吉兆・不吉の両方を味方にできるのではないかと思ってジンクスとして実践している。具体的には靴箱や駐車場等の番号が振られたものは不吉とされる数字のものをすすんで選択して使う、道ばたにある野生動物の死体やゲロ等の穢れていると感じるものが視界に入ってたとしても動いて自然に視界から外れるのは良しとするが視界からそれを無くす事を目的にして視線を動かす事はしない(それらを好きなわけではないので嫌な気分にはなる)等。
 不吉を忌避している人はそれが起きると特別な事として強く記憶されるのでその後に不幸があると関連付けて考えてしまうが、自分の中では不吉も日常の当たり前の中に溶け込んでいるので特別な事ではないので、不幸と不吉な出来事を関連付ける事のストレスがないという精神衛生上良い行いだったのではないかと気付いた。これからも引き続き実践してゆこうと思う。
 霊感等の所謂シックス・センスの類いは自分には無くて祝祭の呪物展の展示物を観ても何も感じなかったが、万が一という事もあるのでタバコを吸って申し訳程度の魔除けを施した。仏教の線香にキリスト教の振り香炉といったように炎と煙には魔除けの力があるとされているので何かしらの効果はあるだろう。特定の宗教を信仰している訳ではないが、こういう風に地理的に離れている文化圏や違う宗教なのにまるで示し合わせたように両者で共通している事には何かあるとは思っている。

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