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デカルト「方法序説」の魅力

デカルトの「方法序説」は、第一部から第六部に分かれていて、今回紹介するのは主に、第三部までの前半部分です。

「方法序説」は哲学書ですが、第三部までは生き方の指南書(自己啓発本?)として読むことができ、これはほとんどエッセイのようで、言葉も平易でとても読みやすいです。

時代の変化のスピードが恐ろしく速く、常に過剰な情報に晒される現代に、「いかに自分自身を見失わずに生きるか」ということは一つの重大なテーマだと思いますが、第三部までの文章には、それに役立つ知恵がたくさん書かれています。数百年前に書かれたにも関わらず、その思考が今も充分有効であることに驚きました。

デカルトは十七世紀の哲学者で、「近代哲学の祖」と言われます。人間の理性を中心とする見方、精神と物質(主体と客体)の二元論、自然を機械と見なす視点、そうした近代思想の基礎を作った人であると。

有名な「我思う、ゆえに我あり」や、神の存在証明、あるいは機械論的な自然観などの哲学議論は第四部以降に書かれていています。しかしここではそうした哲学史に関わることはあまり触れません。というのも、今回「方法序説」を読んで僕が胸を打たれたのは、デカルトの生き方や態度だからです。

第三部までは何が書かれているかというと、次のようなことです。

青春時代のデカルトは、真理の認識の獲得のために、当時学んだ学問の知識を全て疑うことにして、外の世界に学ぼうと決意します。なぜそのように決意したのか。そして、真理の認識に向かって前進していくためにはどのような方法を考えるべきか。その思索が主な内容です。

注目したいのは、自分がそれまでに身に付けた知識を捨て去り、新しいところから始めようと決意したところです。このゼロからの出発は、とても勇気のいることに思えます。

人はたいてい自分の得た経験や知識の延長で物事を考え、現実を生きます。自分の持っている知識を全て疑ってみよう、などとはなかなか考えません。

しかしわたしのこの計画だけでもすでに、多くの人たちにとって大胆すぎるのではないかと、大いに危惧している。かつて信じて受け入れた意見をすべて捨て去る決意だけでも、だれもが従うべきき範例ではない。

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僕がとても気になったのは、デカルトはなぜ、そうした勇気ある行動をしようと思ったのか、つまりこれまでの自分の知識を疑い、ゼロから一つ一つ正しい知識を見極めるという壮大な計画を実行しようと思ったのか、ということです。

簡単にいうと、デカルトの文章から伝わってくる自信、力強さの源泉が知りたくなったのです。

理由は二つあると思いました。

一つは、デカルトには目的があった、ということ。それは、数学から見出した方法を用いて、哲学の確実な原理を打ち立てることでした。

デカルトは当時の哲学は基礎がぐらぐらだと考えていました。それに対して数学には信頼を置いていたので、数学の方法を用いて哲学の原理を打ち立てることはできないかと考えたのです。

(…)わたしは哲学でまだ何も確実な原理を見いだしていないことに気がつき、何よりもまず、哲学において原理を打ち立てることに努めるべきだと考えた。

もう一つの大きな理由は、こちらがより重要だと思うのですが、デカルトは人間の理性というものを信頼していたということです。ここが現代人である僕との大きな違いだと思いました。

デカルトの考えでは、人間は皆、理性を持っており、それによって正しい判断をすることができます。だからデカルトはそれまでに学んだ知識を捨て去っても、あらゆる事象に懐疑の視線を向けたとしても、自分の持つ理性によって正しい認識に到達できると信じることができたのです。

むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。

だから実は、デカルトのゼロからの出発は、実はゼロではなく、理性への信頼という大きな「1」があったということです。デカルトの自信、力強さの源泉はそこにありました。

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あらゆるものを疑った、というイメージのあるデカルトですが、ただ単純に疑ったわけではない。デカルトの懐疑の根底には、真理に向かって前進するという目的と、理性への絶対的な信頼があったのです。

身に付けているものを全部捨て去っても、ゼロにはならない。私たちは既に、重要なものを手にしている。

そんなメッセージを「方法序説」から受け取りました。

最近の僕を振り返ると、もっと知識を得なければ、職業的なスキルを得なければ、と焦燥感に追われる日々でした。

それは、「自分は何も持っていない」という不安から来ていたのだということに気付きました。自分が空っぽだから、外側に何かを求めるのです。

しかし「方法序説」を読み、デカルトの確信に満ちた、堂々とした態度を見て、自分の外にばかり求めるのではなく、デカルトのように自分の内にある力を信じて前に進みたい、と思ったのでした。


ところで、デカルトは今まで身に付けた知識を捨て去る行為は、全ての人にお勧めするわけではないと言っています。二つのタイプの人間には向いていないそうです(そして、世の中はこの二つのタイプばかりだとも言っています)。

① 自分を有能だと思っていて、判断を急ぐ人。自分の思考を秩序立てて導くだけの忍耐力を持たない人。このタイプの人は、疑うだけ疑って、まっすぐ進むための小道をたどることができず一生さまよう。

② 自分で判断せずに、他人に教えてもらおうとする人。

何だか、どちらも現代の人々に共通する性質のように思えます。今は時間の流れが速く、ゆっくりと思考するよりもむしろ素早い判断が求められるし、地道に学ぶよりも結果を出すことが求められるので、①のタイプになりやすいところがあります。また、情報が多過ぎて、②のタイプのように影響力のある人の意見に流されやすい。

①のタイプのところで出てきた「忍耐力」とも関係してくるのですが、「ゆっくりした時間の流れ」というのは「方法序説」を読んでいて得たキーワードで、デカルトはとにかくゆっくり、地道に、ということを大切にしていました。

だが、一人で闇の中を歩く人間のように、きわめてゆっくり進み、あらゆることに周到な注意を払おう。そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気をつけて転ぶことのないように、とわたしは心に決めた。
そしてそれは、この世で何よりも重要なことであり、速断と偏見がもっとも恐れられるべきことであったから、当時二十三歳だったわたしは、もっと成熟した年齢に達するまでは、それをやりとげようと企ててはならないと考えた。

この「ゆっくりとした時間の流れ」というのもまた現代を上手く生きるために必要な要素なのだと思います。

こうして、僕が「方法序説」から学んだのは主に次の二点です。

① 外部の知識に頼るのではなく、自分が本来持っている力を信じること。

② 判断を急がず、ゆっくりと正しい道を進むこと。

読み終えた後は、今よりも力強く生きていけるような気がしました。


■おまけ1

デカルトと神

デカルトは、人間の理性は神に由来する、と考えていました。実際「方法序説」の第四部では「神の存在証明」がされていますが、今ではこれは間違いということになっているそうです。確かに納得はできません。

しかしこれを読むと、デカルトにとって理性と神は繋がっていたということがよくわかります。デカルトが生み出した近代合理主義が結果として神を否定したというのは皮肉な話です。

今の時代、「考える」ことによって不幸になる、という面があるような気がします。だから人は考えることを避けようとする。

しかしそれは、「信じる」ことが難しくなっていることと無関係ではないと思います。「考える」と「信じる」が切り離されてしまった…、というか。

「方法序説」を読むとデカルトは幸せそうに見えるのです。

■おまけ2 

第三部に書かれていること

第三部が結構面白いです。ここには、デカルトが自分の身に付けた全ての意見を検討するにあたって、何も決定しなければ日常的な行動が全くできなくなってしまうので、そうならないように、いくつかのルールを定めたと書かれています。デカルトは家の喩えで説明します。つまり今住んでいる家を建て直すにも、工事の期間中、居心地よく住める別の家を用意しなければならない、ということです。リアルで説得力があると思いました。また、正解のない時代に思える現代に、このルールがとても実践的に思えました。簡単に紹介します。

① 自分の国の法律と慣習に従うこと。そして、極端な意見は採用せず、最も穏健な意見を採用する。また、自分の自由を少しでも削るような約束も、極端と見なして従わないようにする。

② どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は一貫して従うこと。

例えば森に迷った場合に、進む方向をあれこれ変えるのはよくない。同じ方向にまっすぐ進むことによって、森から抜け出すことができる。

そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである。

③ 世界を変えようとするより、自分の欲望を変えるように努めること。自分の範囲内にあるものは自分の思想しかないと信じるように習慣付けること。このルールによって、自分の手に入らないものを未来に望むことはなくなり、自分を満足させることができる。

そして、ダイヤモンドのように腐らない物質でできた体や、鳥のように飛べる翼を持ちたいと望まないように、いわゆる「必然を徳とする」ことによって、病気でいるのに健康でありたいとか、牢獄にいるのに自由になりたいなどと望まなくなる。

どうでしょうか。とても具体的で実践的な思考ではないでしょうか。








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