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空っぽの冷蔵庫 2024/07/07週

ここ何週間かで2回くらいクリスマスという言葉を使うことがあって、それでふと思い出したことを書いてみる。

私の実家は国道沿いに面したいわゆる田舎の街のケーキ屋で、喫茶店を併設した建物の1階の全体がお店と工場(コウバ)になっていて、その2階が家族の住まいだった。

建物の正面と向かって右側から裏口までの喫茶スペースはガラス張りで、そのスペースに工場が少し縦長のコの字に囲まれていた。ケーキの並んだショーケースの背面左手から工場にはいると、手前側から業務用の冷凍庫と冷蔵庫がいくつも並んで、喫茶スペースと工場を隔てる壁と冷蔵庫の間に作業台が川の字に2つ並んでいた。

クリスマスの時期になると、いつもは色んなお菓子やケーキの材料やらが収められている冷蔵庫をたぶん両親は計画的に少しずつ"寄せて"いって、ケーキを渡すことになる日が近づくにつれて、冷蔵庫の中は箱詰めしたクリスマスケーキで埋まっていく。

一応(?)菓子屋の子どもだった私もその時期ばかりは普段漫画を読んだり、ゲームしかしていないのにさほど抵抗なくデコレーションケーキの仕上げを手伝っていた気がする。2列の作業台を木の板で渡して少しだけスペースを拡げて"ライン"をつくり、右側の母ともう1人のパートさんが生クリームを塗ってデコしたケーキを順々に押し出してくる。そのケーキに私や祖母や妹は仕上げにメレンゲのサンタやチョコレートのプレート、モミの木やヒイラギの枝の飾りをトッピングしていって、箱詰めをする。箱を閉める前に小さなロウソクを入れるのをお忘れなく。

私たちが本格的に手伝うときにはもう壁面に並んだ冷蔵庫の中は箱詰めされたケーキでほとんど一杯になっていて、日付ごとに整理したケーキを予約した人が受取りにくるにつれてできた冷蔵庫の中のスペースに、また箱詰めしたケーキをつめていく。
クリスマス当日の夜になると作業も少しずつ落ち着いて、食事でもしようかというタイミングになるとどこからともなく(本当にどこからともなくだった)小僧寿しが買ってあって、それを手の空いた人が順番に工場の端で食べていた。私のクリスマスの食事のイメージは横に汁物も何もないパックの小僧寿しで、そのせいなのか未だにクリスマスにご馳走を食べる感覚に馴染みがない。(クリスマス→ご馳走のイメージもずいぶんステレオタイプな気がするけど、、)

夜が更けると、冷蔵庫は隅から隅まで空っぽになっていた。そのときの高揚感のことを子どもの頃の私は何と言えばいいかわからなかった。大人になってはじめて、それは誇らしいという言葉でいえるような気持ちだっただろう、と思うようになった。それから何十年も経って、いまだにそれに見合うような感覚を自分がした行為の中から得ることはできていない。クリスマス、店、工場、板で渡された作業台、両親、箱詰めされたクリスマスケーキ、ケーキを受取りにくるお客さん、パックの小僧寿し、空っぽの冷蔵庫。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。