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蟻とランダム、次に書きたいこと

休日の朝起きてからリビングのある2階にあがってトイレに入ると蟻がいるのに気がついた。あらためてトイレの個室の床を眺めてみると辺りに何匹か蟻がいた。どこから入ってきたのか、この数の多さは少し変だと思いながらトイレットペーパーでその辺りを片付ける。リビングのドアをあけるときにはもうこちらはそれ前提の眼になっているから壁沿いの床に蟻がぽつぽつ列になっているのに気がついた。ゴミ箱を収納しているスペースの床の辺りに近づくにつれて密度が増していて覚悟してゴミ箱をどかした。
原因になっていたらしいゴミやそこらじゅうにいる蟻を大方片付けてしばらくしたら奥さんと子どもが2階にあがってきた。どっかから蟻がはいっちゃったみたいで、一応片付けたけどまだゴミ箱の辺りにぽつぽついるから、と声をかける。壁をつたってはいったのかね、家の横にはえはじめている雑草を掃除しないとかな、それにしてもどっから入ったのかな、と話すとき今から考えると感情が高ぶっていたかもしれない。突然の厄介な状況の対応、家族との温度感のギャップ埋め、いくつかそうなりそうな気分が想像ができる。

午前中のうちに上の子は隣の家との間の狭い外壁周りの雑草を片付けて、その後私はその隙間にヤカンをもっていって巣かどうかはっきりはしない砂利石の上に散らばった土を見つけては熱湯をかけていったものの、キチンとした対応になっている手応えは感じられなかった。給湯器があって狭い箇所を体を横にしてくぐりぬけるとき背中が擦れたのが気になって、家にはいってからTシャツを脱いで確認して、目につく汚れがなかったから同じTシャツを着直した。

それを書いて何ということはないわけだけど、書くとしたら俺は"片付ける"としか表現しようがないだろうな、と散歩中に考えていて果たしてそうなった。
時々はじめの一匹の蟻がリビングに迷いこんで歩きまわっているうちにゴミにぶつかり、それを可能な範囲で巣に持ち帰って、その蟻がまた巣の外にでていくのを合図に他の蟻がそれに追随するのを想像することがある。偶然にそういうことが起こった。



いくつか最近気になっていることをメモしておいて、次に何か書くときに自分の気持ちが座りいいようにしておければと思う。

平井靖史『世界は時間でできている』を読んでから、そこで扱われている興味深いモデルを真に受けて、他の本にそれを反射させながら読書をする。例えばアレグザンダー『形の合成に関するノート』は相互作用や接地、若林奮の振動尺は凝縮のモデルで考えたくなる。もう一度精神分析関連の本を読むときはベルクソン由来の即自的な記憶のモデルを踏まえると思う。
noteをはじめたときに念頭にあった、ある程度自律的な読書ということを続ける態勢ができてきたとは思うが、何だっていいという気もする。この何だっていい、というのはそのままの意味で、別に読書していなくてもいいし、散歩でもいいし、それが文脈に違わないなら仕事でもいい、子どもを休みの日に自転車で普段あまり行かない場所に連れて行ってもいい。偏ると飽きることもあるけど、偏って飽きないならそれはそれで嬉しい。

あとはiphoneで写真を撮ることを繰り返すうちに何となく前より楽しみたい、自分で面白いと思えるものが撮りたいと思うようになったので構図のこともぼちぼち書いてみたいと思っている。三分割法から考える感覚の論理とか。

少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。