関係と遅延と機知 2022年8月21日週次投稿
週のはじめの記述のストレッチ、週次投稿です。
今週は友人とのやり取りで印象に残ったことについてのメモと、思い出すということに関わるプロセスについてのメモ、という感じで書いてみようと思います。
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学生のころからの付き合いで今でもたまに会って話をする友人が数人います。
その中の一人は、当時いつも飲酒しながら話していたのもあるのか、家族を含めた付き合いになってからはその前提が違うことや、久しぶりという言葉をキッカケに話しはじめるのに慣れていないのもあって、会話に興が乗るころには、また次はいつになるかね、と覚束ない約束をして解散するような関わり方になっています。
この間は、いつものように酔いにかまけているうちに、知識を得るための取り組み方が変わってきているという話題になっていました。
私から、
ー最近面白いと思うようなことはあった?
とか何とか適当なことを言っただろうと思います。
そこには、友人がそもそも自分から見て優秀だという感じからか、話題をふれば何かしら話してくれるだろうという甘えも見て取れる気がします。
書いている最中の頭が、いつのまにか付き合いの長い友人との関係の話に引っ張られているようで、もしかするとはじめからこのことが書きたかったのかもしれません。ただこういうことは書くのが色々と大変です。関係というのはいつも大変なもので、そこに会話が乗っかるわけなので、何ともない会話も大変なものに思えることがあるのかもしれません。
ともかく友人は、近ごろは知識を得るのに、動画コンテンツや一定の評価のある入門書に頼っていて、それで自分に取り入れられたものによって他のことに気持ちを配分することができる、というようなことを話してくれました。この内容には多分に私の解釈がはいっています。
それは私にもとても良くわかる話で、共感もして、最近はこの入門書がよかったという余計なことも伝えたかもしれません。
ただ私はそれを聞いて、相槌をして、自分が思いついた話をするか二の足を踏みました。
それは、自分の実感を伴う問題は、知識やその内容よりも、どうすれば自分にそういった違いが出てくるのか、というか、、むずかしいですね。
たとえば背伸びの読書の前に、ある解説書を踏まえて、元の本にうまく取り組むことができたとしても、元の本を読んでそこに書いてあることから、解説書を自分で書けるような人間にはなっていないよな、とよく思ったりします。
あとたとえば、誰かが今自分の目の前で、その人にとって大切であろうことを考えがまとまらないままに話しているとき、それに対して気の利いたことを返すでもなく、ただ自分のことでもあるような気持ちが芽生えてくること。それがその考えへのレスポンスにならないようなものでも。
解説書を書けるとまではならないにしても、友人に話してみたいことはいつもそういうものだったらいい。こういった素朴な感覚をその時に友人に伝えるには考えが足りていませんでした。
誰かと関係があるというのには、会ったその後の過ごし方にもいくらかの違いが出てくるようなところがあります。同時に、リアルタイムであること、機知ということも自分が関係を考えるときに思い出すことでもあります。
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何かを思い出そうとするときに意識下で自分が能動的にしているのは、その思い出そうとする対象の周縁にどういった印象があるかをサーチするようなことをしている気がします。
晩ごはんに何を食べたかを思い出そうとするしたら、メニューそのものを思い出そうとするというより、食事の前後の時間帯で何か思い出せることがないか、奥さんや子どもが何か話していなかったか、諸々。
そんな回りくどいことをしている気がします。
直接思い出すということが無意識に断念されているような、、いつからそういうことになったのか、これまた思い出せません。
当たり前ですが、何かが(勝手に)思い出されるときとは全然違いますね。
ちなみに昨日の晩ごはんはセブンイレブンのチルドのつけ麺でした。
疲れている奥さんの印象につきあたり、これまた疲れて寝ている上の子に「よく眠っているので 起こさないで セブンイレブンにいってきます」と書き置きを残して、下の子と3人でセブンイレブンに行きました。
その食事の前の印象につきあたることは、その後に何を食べたかということを思い出すまでもない状態にさせるようになっているようです。
北海道から帰ってきた上の子の同級生が、白い恋人をお土産に届けてくれたことも思い出しました。3時のおやつに子どもが食べることになりそうです。
少しずつでも自分なりに考えをすすめて行きたいと思っています。 サポートしていただいたら他の方をサポートすると思います。